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田園に死すのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

田園に死す(1974年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

 日本映画いちの複雑怪奇。虚構と現実、過去と現在、構成も時制もなかなかに入り組んでいる。「8 1/2」のような、寺山作品の中でも中間的で混沌とした作品。マニエリスム的極致。そして土着。勝手ながら自分の映画体験に革命を起こした作品として崇めてる。

 初めて観た時、短歌がまんま朗読される中のこの世とは思えない土着の異様さに完全にやられたのを思い出す。この手の堂々としたカルト映画が日本にもあったという喜び。

 寺山の主題の執拗な反復は、単に要素としてだけでなく、あらゆる形で変奏される。短歌や歌集で、そして今作以降も映画では幾度も繰り返される。ここ最近寺山作品を立て続けに見ていると、また同じ話かと、まるで親父の説教でも聞くような顔をしてしまった。形を変えるだけで、殆ど中身は一緒じゃないか。時計、母殺し、恐山、娼婦、童貞喪失、サーカス、怨恨…、今作がそのモチーフの殆どを詰め込んだものだと言える。遺作の「さらば箱舟」なんて、かなり洗練されたと思う。しかし、何がここまで執拗にさせるのだろうか。

 あるインタビューにて「行く道と帰り道どちらが好きですか?」と聞かれた寺山は、帰り道というのを通ったことはなく、行きっぱなしであると答えた。彼はそうして過去は戻れないものであることを言った。しかし、そう言う彼の作品はいつだって過去の主題の反復だし、生まれた青森県だし、この矛盾がよくわからなかった。ただ、過去は彼にとって呪縛ではなく変容するものだが、そこにあった怨恨は残り続けるということかもしれない。取り巻く事実よりも、心意気というか。前作の観客への攻撃性はそっくりそのまま自分に向かう。確立しかけた過去の世界観をわざわざ虚構と言い切り、こんなものは作り物なんだと作者は自身に言い聞かせ、それでも母を殺せないとなると…悔恨。結局、今の母を殺せない時点で、時を遡っても殺すことはできない、まさに後悔先に立たずな話となるのだった。

 また解決し難いがためにあらゆるアプローチでそれらモチーフを解体しようとしていると言えるかもしれない。短歌、詩、小説、エッセイ、戯曲、歌謡曲、映画、これだけ色々な手法が必要なほどに。

 寺山修司の持つヴァナキュラー文化。ヴァナキュラー文化についてwikiに載っていた菅豊の言葉を引用する。
「少々乱暴にいうならば、ヴァナキュラーという語には、文字に対する口頭、普遍に対する土着、中央に対する地方、権力に対する反権力、権威に対する反権威、正統に対する異端、オフィシャルに対するアンオフィシャル、フォーマルに対するインフォーマル、ハイに対するロー、パブリック(公)に対するプライベート(私)、プロフェッショナルに対するアマチュア、エリートに対する非エリート、マジョリティに対するマイノリティ、不特定多数に対する集団、集団に対する個人、高踏に対する世俗、市場に対する反市場、非日常に対する日常、仕事に対する趣味、他律に対する自律、意識に対する無意識、洗練に対する野卑、教育に対する独学、テクノロジーに対する手仕事などなど、実に多様な含意を込めることが可能である」
 驚くべきことに、これらのほんの一例のどれもが寺山の作風に当てはまるように思う。自分の生い立ちに無い地方という土地への羨望、怨念と共に眠る赤い櫛の見当たらない劣等感、空気女のように膨らんでぼーっとして、怒りを持たない自分が悔しい。三上寛に喝を入れられる。「たかが」と言いつつその諸行無常を甘んじて受けない、君忘れたもうことなかれ。ヴァナキュラーたれ。
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