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淵に立つのotomisanのレビュー・感想・評価

淵に立つ(2016年製作の映画)
4.1
 小学娘がオルガンを弾き始める、どうということもないようでいてずっと後ろ姿が続いたあと、津田寛治(鈴岡)の何ひとつ面白くなさそうな朝の食卓風景。鈴岡家の屈折を表している?それともあなたのウチもこんな感じか?
 これだけで十分不穏気なのに、11年の刑を終えて元殺人犯、八坂が戻ってくる。その殺人の共犯者でありながら八坂の黙秘に従ったか利したか、知らぬ顔をした鈴岡のもとに町工場の手伝いを兼ねて住み込むことになる。向こう3週間、山形に転出するまでの事なのだが。

 こうした不安な背景のもと、その3週間に起こる事件は八坂の悪意に根ざした事なのか、鈴岡のもとを訪れたのもそのためなのか、それとも、全て偶発事に過ぎないのか。どちらとも取れそうな成り行きと、八坂の犯意を匂わせる表徴の閃きに、悪意の有無どちらを信じるか次第で八坂の人物像も揺らいで何を信じるべきか、浅野の持つ底意の知れぬ味わいがどちらも本当さと笑うようだ。
 この八坂が鈴岡家に残した諸事件のあと再びいつ現れるか、その時真実が知らされると誰もが信じて続く8年を待ったはずだ。そのとき、鈴岡とその妻子、さらには不意に現れた八坂自身の息子のたどる運命の見え方も変わってくるだろうと。

 こののちの彼らの生きるも死ぬも、なにを思うも思わぬも、いつもと違って語りたいと思わない。ただ、さいごに誰がなにを決心したにせよ、それは八坂が促した事であり、八坂の存在が結果それを招いたのである。
 ただ、八坂が彼らの運命の男なのは確かであるとしても、おそらく、生身で素顔の八坂が現に及ぼした作用以上の不運を皆が自ら引き寄せ被ったようにも思える。
 それは、八坂が鈴岡の妻に打ち明けた、11年前、事件当時の八坂の信条、法も常識も超然して約束を守る事、誰もがそうある筈であって、違えない自分が正しく、ならば違えた他人は許さないと受け取れる事。そして、八坂自身も殺しの結果、死刑も顧みず約定を通し不誠実なことを述べない。このような姿勢で法廷に臨み示した発言と態度が八坂が殺した人物もその遺族も原告である事を恥じ入らせるものであったに違いない事からもうかがわれる。
 つまり、そんな八坂の姿、峻烈剛直な真摯さが人をことさらに圧倒し、そして思いがけない作用を相手に自発させるのだ。それが、傍聴中の殺人被害者の母親が自らの頬を繰り返し打つ仕草であって、被害者遺族でありながらそのために被った恐らく謂れある屈辱に打ちひしがれた末の発作である。

 同じ事を20年後に再現する鈴岡の妻も、殺人の共犯者が自身である事を自白した夫によって促され、8年前彼女に下獄した経緯を語った中でも共犯者のいたことすら緘黙した八坂の潔さに今更のように打ちひしがれるのである。
 そして、それは取りも直さず全身不随となった娘の事件は八坂の悪意ではない事を直感させるものでもある。もちろん真実は分からない。ただ、鈴岡にすれば八坂のそうした在り方は承知のことで、共犯の件は自供しないと約束された事であるから従っただけに違いなく、だから20年間事に動じない。しかし、妻は8年も経て父親八坂には会った事もない息子を通じてやっと明かされた20年目の現実にもまたしても打ちのめされてしまう。
 こうして八坂の存在も、そしてこの8年の刑を負わせた罪の正体もますます遠いものになってゆく。

 結局、八坂はどこまでも巧妙に彼らを追い詰めたのか、ただ者ではない八坂に彼らが惑わされ振り回されただけなのか。それでもひとつだけ、こののち鈴岡は20年前の殺人の共犯である事の自供を始めるような気がした。その姿をさらす事で消えた八坂をもう一度引き戻せる、そんな気がするからだ。もちろん八坂に真実のために生きていて欲しいと願うからである。
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