ヤマシン

淵に立つのヤマシンのレビュー・感想・評価

淵に立つ(2016年製作の映画)
4.4
とても重い作品。そして恐らく自分の中では今年一番といえるほど心に刺さった作品。
高校時代同級生だった鈴岡と八坂。鈴岡は結婚しており、自らが経営する印刷所で妻の章江、娘の蛍とともに暮らす。突然姿を現す八坂。仕事や住む場所のなかった彼は鈴岡一家と共同の生活を送る事ととなり、それがとある事件を起こす。
脚本もとても素晴らしい作品だったと思うのだが、映画のストーリーの要所だけであればおそらく原稿用紙1、2枚程度で語りつくせる話。この映画についてとある友人にシナリオを全部話すよう頼まれたとき、数分で話し切り、そういうことねと納得してもらった。それがとても悔しかった。自分にとってこの映画においてシナリオだけを理解することはフルーツを食べずにして中身の外の皮の色だけを知るようなもの。味や食感、原産地や食べ方などをきちんと人に説明できる能力を持ち合わせていなかったためそうすることしかできなかった自分に腹が立った。おそらく色すらもきちんと説明できてないのだが、それは自分でも作品に対する理解が追いついていない証拠である。自分の映画に対する見方を磨くタイミングを教えてくれた作品ともなったこの作品。
監督ご自身もおっしゃっていたが、この映画が一番伝えたい事は「家族とは不条理である」ということ。結婚という契りを境に人と人は夫婦となり共同生活を送るが、もともと他人同士。家族は崩壊するのではなく、もともと崩壊しているのである。子にせよ兄弟にせよ、みなバラバラに生まれ、行動し、死んでゆく。そんな家族とは反対の、家族=ハートウォーミングを売りとするドラマ、映画が無数に存在する世の中に対する怒りが原動力ともなっているこの作品には底でぐつぐつ煮立つようなエネルギーに溢れていた。
そのエネルギーは様々な要素から感じられ、まだ気づいてない部分も山ほどあると思うが、自分がとくに感じたのは色と役者からである。
まずは明暗と色の使い方。全編カラーにも関わらず見終わって思い返すと頭によみがえるのは白、黒、赤である。白と黒の間には無数のグラーデションがあり、それを約二時間のうち無数にあるカットごと、役者ごと、表情ごと、時間経過ごとに変化させていく。その色はもちろんカメラや編集によって色づけされているだろうが、もとにある色はカメラの向こうにあるものから実際に発せられている。リビングにおける窓は大人の目線でようやく見えるほどの高さで、向こうには格子すら見える。光が差し込む量は少なく、まるで地下室のようなダークで閉鎖的な印象を与える。そんなダークな印象をより加速させるような立ち位置をとる演者たち。そのときそのときの感情が明暗で理解できるほど絶妙なポジショニングはより不気味さを煽る。車内で章江がトンネルに入った瞬間(顔が見えないほど暗くなった瞬間)に発した言葉に尋常ではないエネルギーを感じたのは明暗の演出を理解できていた終盤だったからこそなのかもしれない。そして物語に登場する人物の中でもっともダークであろう浅野忠信演じる八坂。彼が食事中も睡眠中もずっと身にまとっているのは真っ白なシャツである。真っ白なシャツに汚れが付くと目立つということは周知の通り。さらに作中要所要所で登場する真っ赤なもの。ドレス、かばん、花。それらが出てきた瞬間に観客全員が不吉を予感させられる。極めつけは真っ赤なシャツであり、演出方法よって予感が確信に変わっていく。色だけで見ている観客は操作されていくのである。
そして役者陣。全員実力派であることは言うまでもないが、作中で発生するいくつかの事件のことは置いておいて、浅野忠信以外彼らが演じるのは実社会にいくつも存在するような一般家庭である。一人一人がまあ普通。そのまあ普通を彼らの最高の技術と熱量で演じきる事によって普通の中に存在する闇、監督の言う不条理な部分が作られるのではなく、湧き出てきているように感じた。断るたびにごめんなさいねを付け加える章江、どこか伏し目がちな鈴岡。彼らの些細な表現はもちろん脚本どおりなのではあるが、この微妙なニュアンスを演じきるには相当な努力、準備が必要なのだろう。
浅野忠信演じる八坂だけはやや一般社会と離れた存在。かけ離れているわけではない。その感覚は離れてみないと理解できないものなのではと思っていた。離れることで変化する何かが必ずあると思うからだ。しかし、その考えとは裏腹に完全に八坂にだった。勝手な推測だが、様々な役者キャリアによって、演じた役を実生活に置き換えて、その変化する何かすら理解できるようになっているのかもしれない。演じてなりきるうちに本物のようにみえていく。映画を見るとき、観客は中の登場人物になりきって、自分とは別の人生体験をする。それが映画の一番の楽しみでもあるのだが、役者は見るのではなく演じ、なりきることで別の人生体験をする。そう思うと観客と似ている部分がある。しかし役者の注ぐエネルギー量は桁違い。映画の観客をより能動的に進化させると役者になるのかもしれない。そういう意味で尊敬の念すら抱く。そう思わせてくれた浅野忠信演じる八坂はもはや脅威。
どんな映画もそうだろうが、この作品はとくに集合する全ての要素一つ一つの持つ強いこだわりが見事に融合してスクリーン上に現れた傑作だと思う。見る人や、見る回数、見る場所によって受け取り方や考え方は違うだろうが、観客としてできることは、本気で見ることである。本気で見ることで、観客も作品の集合体の一部となり融合してゆく。
ヤマシン

ヤマシン