笹井ヨシキ

ブレードランナー 2049の笹井ヨシキのネタバレレビュー・内容・結末

ブレードランナー 2049(2017年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

ドゥニ・ヴィルヌーブ監督最新作ということで吹き替え版と字幕版で二回鑑賞して参りました。

オリジナル版の「ブレードランナー」は映画好きに成りたての頃に鑑賞して当時はピンと来なかったのですが、
最近見直して、無国籍で雑多なディストピア世界のリアリティと生命に限りがある事への不安や創造主への怒りなどのテーマ性など、一言では言い表せない奥深さと面白さを再認識した次第です。(というかその程度のにわかですw)

そんなにわかの自分が観た感想としては、
「ブレードランナー」30年後の世界として「コレジャナイ感」を出さず納得行くものを提示しながらも、監督自身の作家的な主張も全面に押し出しており、カルト的人気の高い映画の続編と自身のやりたいことを両立させる綱渡りを見事にやってのけた作品だなぁと思いました。

まずブレードランナーの世界観として、闇鍋的な無法地帯だったオリジナル版とは違い、今作は「ブラックアウト」という出来事を経たためか、統治機構による管理が行われ、雑多な街並みがすっきりと整理されて「しまった」世界となっています。

元々オリジナル版は文化の上に文化が上塗りされ、渾然一体とならず質量だけが増えるといったような闇鍋的なアプローチで作られていたのに対し、今作はそこから必須な要素だけを残し整理したことで「美醜を纏った幻想的で不気味な夢の世界」というオリジナルの良さを損なわずドゥニ・ヴィルヌーブ的解釈の世界観を作り上げることに成功しています。

今更ゴシック感の強いブレードランナー世界を見せられてもダサく感じてしまうだけだと思うので、この判断はすごくクレバーですよね。

うどんの屋台が消え自動販売機になっているのも、即席の食事文化は健在だけどそれぞれが各々の世界に生き、肩を寄せ合う活気を失っている現代に通ずる様相を描いているし、
巨大な広告塔に映る「製品」であるジョイは、Kの唯一の存在でありながら万人に微笑みかけるアイドルでもある、という悪夢的ビジョンを映し出し、ブレラン世界を踏襲しつつも幻想に真実の手探りを求めるKやデッカードの心情を表していると思いました。

デッカードの登場もちょっと無理矢理感は否めませんが自分は好きです。

荒廃したラスベガスで一人マリリン・モンローやエルビス・プレスリーなど過去の人のホログラムを眺め、過去の呪縛から抜け出せない(または抜け出さない)でいるデッカードの多くを語らない姿はオリジナル版そのままだし、飼い犬が本物か偽物か気にしないでいるという目配せもオリジナルのフクロウのやり取りのオマージュというだけでなく、レイチェルとの逃避行を選んだデッカードならではの価値観で、哀愁があったと思います。
(家族の喪失による呪縛から抜け出せないという意味では「プリズナーズ」のケラーや「ボーダーライン」のアレハンドロに通ずるものがあるのかなとも思いました。)

全体的に「これは」という要素だけピックアップしてあとはオミットしたり独自の解釈を少しだけ付け足すやり方が非常にスマートでしたね。

そのほかにもKの手に蜂がつくシーンではレイチェルへのフォークト・カンプフ検査のシーンへの目配せでありながら、レイチェルへの想いを寄せるKを表していて、オリジナル版を知っているからこそわかるKの複雑な心境が丁寧な描写で描かれていて良かったです。

またドゥニ・ヴィルヌーブ監督作品としても非常に重要な一作ですよね。

自分の出自に深入りせず何となく受け入れていた主人公が、ふとしたきっかけで奇跡(主人公にとっては悪夢)である呪われたルーツを探す地獄巡りに赴き、自らの不安定な記憶を安定させることで心の平穏を得ようとする。
という意味では「灼熱の魂」の姉妹作と言える作品で、ライアン・ゴズリングの感情を押し殺す絶妙な演技により無表情の中にある焦燥や混乱がとても見応えがあります。

Kは自身の記憶が偽物であることを一応は受け入れレプリカントである自分の人生を諦観していましたが、ふとしたきっかけでその心の均衡は破られ自分が特別な存在であると期待することになります。
自分がデッカードとレイチェルの子どもであること、自身の記憶が本物であること、それらは悉く裏切られあまりに残酷な真実を突きつけられてしまう。

最愛のジョイを破壊され、直後に巨大なジョイの広告塔にその愛は「仕組まれた」ものであると言われてしまう展開はKの自己同一性を奪うと同時に、それでも自分が偽物だと断じることのできないジョイへの愛や過去の記憶の大切さを強固なものとし、自身の為すべき大義を見出していきます。

それは「メッセージ」の主人公が例え不幸になるとわかっていてもその先の人生を謙虚に受け入れ、生を謳歌する覚悟を持ったのと同じように、例え人間が誰かに仕組まれた命のサイクルを構成する小さな点であろうとその中には何者も干渉できない自分だけの意思があり、その声に従うことこそ人間であることの証明に繋がるんだと主張しているようでもあります。

成すべき大義を成し遂げ雪の中眠りにつくシーンでは、オリジナル版で「自らの記憶が消えてしまう切なさと耐え難さ」を雨が流れていくことで表現していたのに対し、今作ではKの周りに雪が降り積もり、それはやはりいずれは消えゆくものであってもしばらくは誰かの中に残り続けるといったことを表現しているように感じグッと来ました。

偽物であってもそれを愛することは偽物ではなく神聖であるというテーマは映画という虚構を愛することの延長線上にもあるとも言え、それを肯定する監督の心意気はとても素晴らしかったです。

とまぁ、ここまでベタ褒めしといて何なんですが、自分は今作基本的には好きだし面白い映画だと思うんですが、「今年ベスト!」と諸手を挙げて言えるスタンスでもないのも事実なんですよね。

どこが気に食わないかというと、「完璧すぎる!」という点ですw(イチャモンw)

完璧というのは意地悪な言い方をすればしたたかとも言えるわけで、全てを踏襲しすぎなような気もするんですよね。

巧く言えないんですが、例えば「マッドマックス/怒りのデスロード」という映画は主人公の設定やストーリーライン、根本的な世界観をそれほど踏襲していないけど、ちゃんとマッドマックス世界を作り上げてファンを納得させているという凄味があったと思うんですよ。

でも今作はちゃんと全てを踏襲し続編を作り上げることで出る違和感や歪みみたいなものをキレイに取り去ってくれちゃっている、そして古いファンへの接待要素も入れてくれちゃっている、それは良い面もある(というかそっちのほうが多い)んだろうけど「これだったらわざわざブレランじゃなくてドゥニの新作で良いんじゃない?」とも感じてしまい、その優等生ぶりに多少の窮屈さを感じてしまいました。

まぁ「マッドマックス」みたいなジャンルも何もかも違う映画を引き合いに出すのも意味不明だし、あちらと違いオリジナル版の監督ではないので好き勝手やるのは控えたということかもしれませんが、これだけ完璧なものを自分は果たして求めていたのか、自問自答していました。

とはいえ163分という長尺でも全く飽きなかったし、確実に面白い作品ではありドゥニ・ヴィルヌーブの圧倒的力量を思い知らされた作品でした!
笹井ヨシキ

笹井ヨシキ