糸くず

ありがとう、トニ・エルドマンの糸くずのレビュー・感想・評価

4.8
普通の映画だったら、イネス(サンドラ・フラー)が最初に泣く場面で「彼女は変わった」ということにして映画を終わらせるだろうけども、この映画はそうはならない。彼女の最初の涙は長い長い物語の始まりに過ぎない。

そもそも、イネスに限らず、グローバル経済や消費者としての生き方にどっぷり浸かっているわたしたちが、ちょっと偏屈な親父に諭されたぐらいで、「合理的」「効率的」な考え方をかなぐり捨てることなどありはしない。上司に「あんたが上司のわたしがフェミニスト?」と反論するイネスは、おそらくキャリアウーマンとして「正しい」生き方をしている。ただ生きるだけなら、それでいい。

ヴィンフリート(ペーター・シモニスチェク)が父親としてではなく、「トニ・エルドマン」としてイネスと接することを選んだのは、「いつもの〈父と娘〉という関係性からではイネスの人間らしさを取り戻すことはできない」と考えたからだろう。そんな父親からの「荒療治」というべきお節介を、イネスが嫌々ながらもちゃんと受け止めるのは、「わたしはこの人の娘なのだ」という自覚が心のどこかにあるからなのだろうか。

イネスがヴィンフリートを石油の採掘の現場に連れていき、冗談が冗談では済まなくなる瞬間を突き付けて逆襲したかと思いきや、今度はヴィンフリートがイネスをフランス大使の家に連れていって、冗談をマジにして逆襲するのが圧巻。というか、イネスのホイットニー・ヒューストンの熱唱には涙がこぼれた。

その後のヌード・パーティの大波乱にあ然としながらも笑い転げ(秘書の女の子はいい子だろうけど、素直すぎてちょっと心配になる)、エピローグというべきおばあちゃんの葬式で再びしんみり。泣いて笑って、また泣いて。ぐだくださえ愛おしい父と娘の和解の物語。今のところ、今年のベスト。
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