ーcoyolyー

PとJKのーcoyolyーのレビュー・感想・評価

PとJK(2017年製作の映画)
3.8
ちょ、お、おま、少女漫画原作プログラムピクチャーでフリッパーズギターかけてんじゃねえよ!!!!!!!!!!






……時は1991年、中部高校向かいの塾のロビーでフリッパーズギター解散を知って違う中学に通う唯一のサブカル友達と泣きじゃくった秋を経て二学期の成績ガタ落ちで推薦受けられなくなって急遽一般受験対応を迫られた函館の中3女子、それが私です。

ですからね、もう、思いっきり気を抜いて自分と1ミリも関係なさそうな函館の青春を傍観しようとしてたら不意打ちで完全にそこに私いたんですよね。なんかいきなり土屋太鳳が私に見えてくるバグが生じて、背格好と髪型が高1の私とそれなりに通じるところもあったので、あれ?って……

どこにも居場所がなくて泣きたくなると「ヤマハさんに買い物行ってきます」(吹奏楽部楽譜係兼楽器係職権)と許可もらって遠回りしてウォークマンにフリッパーズギターのカセットテープ入れて自転車立ち漕ぎで漁火通りを爆走して潮風が目に染みる、という体で涙を流していた私が意外といたんですよね。そのあと大森浜の啄木小公園の下で砂掴んでは啄木ごっこしてたっていうね。フリッパーズギター聴きながら砂掴んでぼんやり海見てね。

帰り買い出しで頼まれた分もリードをバッグに突っ込んで五稜郭公園超ショートカットして突っ切って観光客轢きそうになったりしてね。東京から来る観光客、姉妹校と同じ制服着てる私の勢いにびっくりするから適当に「ごきげんよう」とか挨拶してね。うち東京の姉妹校と違ってそんな挨拶しませんけどね。もうディズニーランドのキャストみたいになってる、観光地育ちってそういうところある。この人たちはお金を落としてくれるから夢見させてあげなきゃって。






耳をいつも澄まして15歳の私がいた。
花束をかきむしり世界は僕のものなのに!と叫ぶ小沢健二が初恋だった私が。






私はあの街に住む人びとにあまり馴染めないところがあって浮いていたのだけど、あの街の風景は大好きでいつもそこに自分を溶かし込んでいた。寂れていて儚くて切なくて翳りがあって、でも乾いてなくてしっとりと適度な潤いと包容力と儚さ切なさの中にも強さを感じる優しさのニュアンスもあった空気感。私はあの空気感が大好きだった。そこに自分を同化してやり過ごしているうちに自分もその空気感そのものになっていた。

多分私はあの空気感に浸かっていたうちにいつでもどこでもあの空気感を纏って生きてしまうようになっていた。

ストーリーどうでもいいんですよ。ただ廣木隆一は完全に狙って函館の空気感を主役に据えてしっかりと捉えてるんですよ。そこに私の破片が満遍なく散らばっていたんですよね。アウンサンスーチーさん並に家と学校以外の場所に滅多に出してもらえずひたすら室内から窓の外を見ていた私が。函館はハリストス正教会の街、すなわちイコンの街ですから、窓の外の世界が、完全に私の見ていたその街の風景なんですよね。

神の国に開かれた窓。窓の外は神の国。

私の学校ロシア正教じゃなくてカトリックだけども、カトリックの監獄の中から外をずっとそうやって見ていた。


かなり意識的に窓とその外に広がる景色を撮っていて、それはもう東京のスタジオじゃなく函館で、函館の学校で(遺愛の校舎の中に男子が沢山いるのが新鮮だった)、病院で、住宅で撮影してます、という意思表示なんだろうけど、そこに胸が掻きむしられて、ああこれ私の函館だなって、佐藤泰志原作の函館三部作の函館は私の函館じゃないんですけど、ここにある函館は存外に私の函館でしたね。

人間やストーリーはどうでもいいので、窓の外を観てほしい。そこに私がいた。私が愛した空気があった。窓の外がこんな景色じゃなかったら私は今ここにこうして生きていることは叶わなかったんじゃないかな。ギリギリで私の命を繋いでくれた風景と空気感がそこにあった。あれが私です。
ーcoyolyー

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