ねむ

ミス・レプリゼンテーション: 女性差別とメディアの責任のねむのレビュー・感想・評価

4.5
24)
『事実なのか意見なのか』
『説明責任がなければ内容に偏りが生じるだけでなく一方的な情報になってしまう』
『これは誰の観点なのか?』

これまで生きてきてちょいちょい引っかかることが幾つもあった。
それを立ち止まってまで深く考えないことも多かったし、正直それを考えたところで世界は変わらないと思っていた。

例えば小さな男の子に『僕は男だから黒がカッコいいんだよ』と言われた。
自分の親くらいの歳の女性が『贈り物のリボンは女の子だからピンクね』と私に言う。
初めて痴漢に遭った時お前も悪いと父に言われた。
母はこの小さな世界や他人はビックリする程恐ろしいとたたき込んできた。
郵便局に行くと私には横柄な態度をとる中年男性は次に並んだ男性にはごく普通の接客をした。
なんだろね。そういうのは先ず何が前提なんだろう?当たり前っていつから?どこから?

時々思う。
黒人やアジア人は白人から差別されてると言うけど、その差別された人からも支配や暴力を受けるのは女子どもや少数派ではないか。全体のうち1番数が多いのは弱者のポジションだろう。
でも私は女で尚且つ自分が受け止めた違和感しか知らない、多分。
きっと全てのジェンダーやその人に付随する様々なレッテルや人生の反映したランキングみたいなものが、天国まで続く階段のように伸びている気がする。
みんな、一段ずつ並んでる。

これまで経験してきた色んな違和感に『えっ?そうなの?』と思う気持ちが何に繋がっていくのかうまくわからないけど
その本質が一体なんなのか問い続ける自分でありたいなと思う。

分断がゴールになるのではなく、調和へ続く過程に足を踏み入れたい。
でも誰であれ相手を尊重せず失礼な人はフツーに感じ悪い。

なんにせよ大きな壁が立ちはだかる時は大体次のステージの扉の前に立っている合図ってことだと確信している。

進もうとした分押し返されたり、揺り返しが起きるということは、今の世界が過去になろうとする直前なのかなと思う。
ねむ

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