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ビリオネア・ボーイズ・クラブのhiyoのネタバレレビュー・内容・結末

4.0

このレビューはネタバレを含みます

この考察は作品のファンによる作品に対するものであり、出演者であるケビン・スペイシー及びアンセル・エルゴートによる性暴力を肯定するものでは一切ありません。
この注意書きに、主演であるアンセルの名前を付け加える日が来てしまったことが、残念でなりません。
性暴力は人権を著しく侵害する犯罪であり、許されません。同じように、彼らの卑劣な犯罪行為を擁護するため、告発者を誹謗中傷し口を塞ぐことも許されません。私たちは加害者ではなく、被害者に寄り添うべきです。
彼らによって尊厳を傷つけられた被害者の心身がなるべく早く快復し、社会復帰をとげられますように。そして加害者には公正な裁きがなされることを願っています。

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2018年版ビリオネアボーイズクラブ(以下リメイク版)は、1987年に放映されたテレビ映画の同名作品(以下オリジナル版)と比較すると、より楽しめるつくりになっていると思う。
より楽しめる、というよりもむしろ、オリジナル版を知らないで見ると、出演者の大ファンでなければ、たとえばウルフオブウォールストリートのようなインモラルなどぎつさを期待したら物足りないし、持たざるものと持てるものの感傷的な青春ものとしても、どっちつかずな印象かもしれない。

だからこそ言いたい。
リメイク版BBCは、ディーンの口を借りたジョーの自伝である。
ナレーションで語られるのはジョーの立場でありジョーの感情であり、しかもそれを親友であり彼を"裏切った"ディーンに語らせることで、鑑賞者に裏切り者であるディーンの"腹黒さ"をより印象づけることに成功している。
鑑賞後、親友にも裏切られたジョーはむしろ被害者なのではないかと感じたなら、それこそがリメイク版のねらいなのだ。

その視点で見たとき、リメイク版の物足りなさがそのままジョーの人となりとなり、映像作品としてはオリジナル版へのリスペクトとオマージュにあふれた、よく練られた脚本であることに気づく。
まさに、視点によって善悪の判断が変わるというジョーの主張「パラドックスの哲学」を体現している。
そしてジョーの願望が色濃く映る演出は「ジョーにも事情があったんだ」という同情を引くどころか、自らは殺人を犯していないという意味で手を汚していないと主張するあまり、逆にジョーのエゴイズムをまる裸にしており、ジョーを擁護する内容にはなっていないと思う。


比較できるように、オリジナル版の概要を書いておく。どちらも実話をもとにしているため、大筋は同じ。
・1984年に起きた事件をもとに87年にテレビ映画化、前後編で作成された。前編はロン殺害まで、後編はサムディの誘拐殺人からジョーの逮捕まで。
・ジョーの裁判における証言とその再現ドラマで構成され、証言中ジョーは一言も話せないという一方的な描き方をしている。
・検察側の証言者は主にディーンとエリック(ボーイズの一人で兄弟でBBCに参加していた)、他にボーイズ。弁護側にジョーの恋人。
・再現ドラマで描かれるジョーは、主に検察側証言者の証言に基づいているため、いかに犯罪を犯したかに焦点が当てられる一方で、そのときどきにジョーが何を考えていたかほとんどわからない。そのため、ジョーの印象はサイコパスそのもの。逮捕される直前まで、事件発覚を防ぐために第3の殺人計画を立てていた。


事件に関してオリジナル版とリメイク版で共通している=事実に近いと考えられる点は
・BBCはロンに騙された。
・ロン殺害リスト(Kill dogのあれ)作成にディーンがかかわった。
・ロン殺害はジョーと用心棒の2人で実行した。
・サムディ誘拐はジョーとディーン、用心棒とボーイズの1人(リメイク版のチャーリーに相当)と息子が実行犯として関与した。
・サムディの遺体遺棄場所を知っているのはジョーとディーンのみ。
・ディーンが行ったFBIへの証言がジョー逮捕を決定的にした。
・事件とは直接関係ないが、ジョーとジョーの恋人(リメイク版ではシドニー)とディーンは3人で一緒に暮らしている。

ちなみに、カラフルなネオンが踊るやけにキャッチーなリメイク版のエンドロールは、80年代のテイストが押し出されているオリジナル版のオープニングへのオマージュだ。
それがオープニングからエルドロールに変更されていることで、リメイク版はオリジナル版の視点を逆転させた物語、すなわち「パラドックスの哲学」を描いていることを示しているのだと思う。


逆に、事件に関してオリジナル版とリメイク版で異なる点は
・オリジナル版では、ロン殺害リストはジョーとディーンが密室で2人きりで作成。
⇔リメイク版ではボーイズと作成。
・オリジナル版では、ディーンはロン殺害を肯定しない。むしろ人殺しまでしたことに対してドン引きしている。
⇔リメイク版では「殺されて当然だ、お前はBBCのために正しいことをしたんだ」と励ましている。
・オリジナル版では、サムディは誘拐時の移動中に死亡、死亡確認はディーンだけでなく同行していたもう1人のボーイズ(有罪確定)も確認している。
⇔リメイク版は誘拐後にディーンが殺害したことになっている。
・オリジナル版では最初にエリックと兄弟がBBCを離れ警察に通報し、殺人を重ねるジョー自身を恐れたディーンがジョーとの同居をやめて実家に戻り、召喚状に応じてFBIに証言している。
⇔リメイク版では裏切り者はディーン1人。
・事件とは直接関係ないが、オリジナル版ではディーンに"腹黒"というあだ名はない。


ここから見えてくるものについて、考えてみた。
もちろん、実話をもとに制作されたとはいえフィクションであるので、オリジナル版もリメイク版も事実に脚色がされているのは当然で、どちらにせよどこまでが事実なのかはわからない。
そのなかで、2つの作品から得られる情報から考えてみたい。


リメイク版がオリジナル版から継承した部分と、付け加えた部分を合わせると、未熟な若者たちが起こした詐欺事件という側面より、ジョーとディーンの2人の関係に、物語は焦点化されている。

ジョーを谷底からすくい上げると約束し、ジョーの背中を押し、ジョーとBBCを立ち上げた、すべてを知っていたのにいちばんの理解者だったのに、ジョーにいちばん支援が必要なときに保身を図ってジョーを警察に売ったディーン。

金にも恋人にもそしてともに夢を見た親友にも裏切られた、まさに飼い犬に手を噛まれたかわいそうなジョー。

ジョーの体験をディーンに語らせるこの構造が巧みなのは、ディーンの裏切りに気づけなかったジョーのうかつさを自業自得とは責めず、むしろ仕方なかったと思わせるところで、それを可能にしているのがキャスティングと演技だと思う。

アンセル・エルゴート演じるジョーは、ハンサムだが童顔で、スマートにアルマーニを着こなしていても、どこか純朴で甘さが残る。そこが非常に優秀な野心家だが、詐欺を働くことへに葛藤を持つ、ジョーの人間的な魅力に説得力を持たせていると思う。

そのジョーを最初に見出し社交界に引っ張り出したディーンは、セレブだらけの高校時代にジョーと同じく庶民出身だったからなのか、ジョーを見下すどころかともに成り上がる道を切り開く。
タロン・エジャトンが演じるディーンは、ジョーやボーイズたちと比べると頭一つぶん背が小さく愛嬌があり、自分の実力以上に見えるように取り繕うのが上手く、ボーイズにもジョーにも取り入る様を"腹黒"と呼ばれている。そしてジョーに負けないくらい童顔で、言ってしまえば可愛いのである。

このディーンが全編通してナレーションをしているので、一見ディーンによる回想録のようにも聞こえるけれど、そうではない。これはナレーションの中で、ディーンが知り得ないことを語っていること以上に、ディーンしか知らないこと(最たるものは、なぜジョーを裏切ったか)を語らないという一人称のブレからもわかる。


ジョーに対するディーンの行動に注目してみよう。
①高校卒業以来6年ぶりの再会でセレブパーティへジョーを誘い、御曹司たちに紹介する
②セレブパーティでのジョーの交渉失敗を慰める
③ジョーにカイルの金で最初の投資をする
④ジョーをロンに紹介する
⑤ジョーを御曹司たちにあらためて紹介し、BBCを設立する
⑥BBCとしての活動ではジョーの指示を仰ぎ、補佐する
⑦ロン殺害リスト作成をうながす
⑧ロンを殺害し動揺するジョーを励ます
⑨ジョーとともにサムディを誘拐、過剰防衛で殺害する
⑩証言者保護と引き換えにジョーをFBIに告発する

書き出してみると、⑩以外は他の誰かがジョーを否定してもディーンだけはジョーの真意を理解し励ます、しかもそばにいるときはジョーの才能を周囲にアピールするだけで、ひたすらにジョーを立てでしゃばらない。
ジョーを馬鹿にしないだけでなく、常に付き従いジョーの指示を待つ様子は、右腕というよりもペットのように見える。
しかもディーンの人たらしぶりは、嘘泣きでプロの捜査官であるFBIをもあっさりとだますほどなので、ジョーがあっさり毒牙にかかってしまっても仕方ない。

これは、ジョーにとってあまりにも都合のよい親友ではないだろうか。

だからリメイク版のディーンは、ディーン本人を描いたのではなく、ジョー本人が信じ裏切られたと考えているディーン像、「自分こそ被害者である」という自己弁護の主張の説得力を高めるために、そうであって欲しかったディーン像、つまりジョーのイマジナリーフレンドと考えるほうが納得できる。

また、リメイク版がジョー視点の物語であるというのは、作中にジョーが登場しない場面がほとんどないことからもわかる。
そして、ジョー不在の場でディーンが見せる表情はどれもジョーとともにいるときとは大きく異なる。

サムディを遺棄したあと、自宅に戻ってジョーの恋人シドニーと対決するディーンも、可愛らしさとは無縁だ。
ここでシドニーがディーンにぶつける「あなたはジョーとは違う。あなたがジョーの輝かしい将来をめちゃくちゃにした」という罵りは、シドニーの言葉というより、ディーンの証言によって逮捕・終身刑が確定したジョーの代弁なのだと思う。

そして物語の最終盤に、FBIに証言したディーンが警察署に連れてこられたジョーとすれ違うシーンで、カメラはジョーではなくディーンの顔を映す。
その顔はそれまで可愛らしくジョーに懐き励ましてきたディーンとは一変して、憔悴しエゴを剥き出しにしたもので、直前の涙ながらの証言と合わせてその変わりざまは何度見ても圧巻だ。

このジョーから見えないディーンの表情こそ、ディーン本人のものなのではないか。


ジョーが見ていた世界をディーンに語らせるという構造は、オリジナル版BBCで描かれるジョーが証言者(主にディーンとエリック)が語るジョーのイメージからつくりあげられているのと対照的であり、そうすることで「パラドックスの哲学」を表現しているのだと思う。


なお、オリジナル版は1987年に放映されており、ジョーが自己弁護を行い死刑をまぬかれた第2の誘拐殺人の裁判は92年であることからも、恐らくリメイク版は92年のジョーの自己弁護をもとに作成・企画されていると考えられる。



2015年末から16年に撮影が終わっていたはずなのになかなか公開情報が出ないなか、出演者の1人であるケビン・スペイシーの長年にわたる性暴力が明るみになったことで、日本はもとよりアメリカでもお蔵入りを予感させたリメイク版。
2018年にようやく公開はされたけれど、結果はデジタル版先行配信であったことと主にスペイシーの問題から初日の売上は全米で126ドルという、惨憺たるものだった。

けれど、その数字で切り捨てるには、あまりにリメイク版はよくできている。それを知ってもらいたい!

出演者たちも作品について語ることは少ない。プロデューサーインタビューがあったくらいで、監督インタビューも出演者インタビューもない。
だからここに書いたことのほとんどは、1ファンの考察で、脚本も書いている監督の話が聞けなかったのが本当に悔やまれる。
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