デジタルリマスター版で鑑賞。凄いのを観た。この映画はアルジェリア国民の魂の叫びなのか。
映画について事前に良く調べず観たため、このシーン、本物の映像使ってるでしょ、と何度か思った。ところが、<記録映像を一切使わず、目撃者や当事者の証言、残された記録文書をもとにリアルな劇映画として戦争の実体をドキュメンタリー・タッチで詳細に再現>(公式HP)とのこと。
アルジェリア市民8万人が撮影に協力し、主要キャストには実戦経験者を含む素人たちを多数起用。戦車、武器類はアルジェリア軍より調達、アルジェリアの首都アルジェのカスバでオールロケを敢行し、5年かけて製作という超力作。
今でも独立戦争の記憶遺産としてアルジェリアでは高い人気を誇るらしい。「独立戦争を忘れるな」というアルジェリア国民の声が聞こえてくるかのようだ。
1966年ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した際、当時現地入りしていたフランス代表団が“反仏映画”と反発し、映画監督フランソワ・トリュフォーを除いて全員が会場を退席したというのは、もちろん、彼らの図星を突いてるからだろう。
以下、アルジェリア戦争について、知識が皆無だったので、ググった結果を踏まえて、考えてみた。参考にしたのはウイキペディアの「アルジェリア戦争」の項目と「France NewsDigest」の記事。
(http://www.newsdigest.fr/newsfr/features/5143-50th-anniversary-of-algerian-war.html)
第2次世界大戦後、民族自決の潮流の下、ヨーロッパ諸国の植民地だったアジア諸国が独立を果たしていく。アルジェリアでも独立の声が高まるが、フランスは簡単にアルジェリアを手放すわけにはいかなかった。
1830年以降、フランスはアルジェリアを支配下に置き、1848年に3つの直轄県(オラン県・アルジェ県・コンスタンチン県)を置いて本国の一部とした。これらの県はフランス本国の県と同様、本国議会に議員を選出する権利があった。
コロンと呼ばれるフランス系の移民も多く、白人社会が確立。自分達の地位が危うくなることを恐れた彼らは、アルジェリア独立にもちろん反対し、フランス政府もこれを考慮しないわけにはいかない。
こうした中、アルジェリア民族解放戦線(FLN)が1954年11月、ゲリラ活動を開始、アルジェリア戦争が始まる。ゲリラに対し政府が一般市民も巻き込んで復讐。それに対しFLNは爆弾テロで応じる。
憎しみが憎しみを生み、報復が報復を生むとはこういうことだと言わんばかりの映像の凄さに圧倒される。
フランス軍将校が、FLNのことを頭が残ると再生するサナダムシにたとえ、頭であるリーダーたちを潰せばゲリラ活動は鎮圧できるとし、その様子が描かれる。
しかし、人はサナダムシとは違う。ゲリラ活動が続いた根本的な理由は、リーダーがいたからではない。アルジェリアの人々の独立を願う気持ちがとてつもなく強かったからだ。
こうしてアルジェリア戦争は泥沼化し、フランス国内での戦争終結、アルジェリア独立支持の世論の高まりに加え、重くなる一方の戦費負担もあり、1962年にようやく終わった。
この戦争は長い間フランスの黒歴史だったようだ。政府はアルジェリア戦争に関する報道を規制するなどの忘却政策を実施したほか、この戦いをフランス領土での秩序維持などとし、戦争とは認めなかった。このため、傷ついた兵士に傷病軍人法が適用されず、第1・2次世界大戦に従軍した兵士と同じ資格が認められたのは1974年になってからだった。
1999年10月になって政府は「アルジェリア戦争またはチュニジア及びモロッコにおける戦闘」と表現するように法律を制定。アルジェリア戦争を忘れないための記念行事が公的に行われるようになった。
一方で、非人道的な問題が頻繁に取り上げられるようになったことに、アルジェリアからの引揚者達(ピエ・ノワール)による抗議活動が活発化。 2005年2月に「フランスの植民地支配を肯定する法律」を成立させた。これは猛反発を招き1年後には廃止されたが、こうした動きはアルジェリアの支配を正当化したいとするフランスの一面でもある。
とここまで調べて考えて、ようやく『アルジェの戦い』の意義が腑に落ちる。フランス、アルジェリア双方について、隠さずに、詳細かつリアルに描くことで、この戦いがフランス領土における治安維持を目的とした「北アフリカでの作戦」などではなく、「アルジェリア戦争」なのだと国際社会に示すこと、フランスに突きつけることなのだ。1966年ベネチアでの“反仏映画”との反発は、当時のフランスにとって、当然すぎるくらい当然のことなのだ。
もっとも現在、「アルジェリア戦争」とするのが国際社会の常識で、フランス国内の大勢。現在のアルジェリアとフランスの関係を描いた映画も観てみたい気分。