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スーパーマンII /リチャード・ドナーCUT版のCureTochanのレビュー・感想・評価

3.8
プロットの中心がキリスト映画の「最後の誘惑」に似ており、パート1と2を同時に撮影してたドナー監督の目論見がわかった。契約のトラブルで、せっかく撮影したマーロン・ブランドが使えないという悲惨なことになり、主人公はカーチャンの亡霊と対話することになった。神様であるジョー・エルがいないとキリスト感も出ない。結果的に一作目だけのちょい役だから、マーロン・ブランドの無駄遣いと感じたわけだ。ファンの要望で作ったので技術的に問題だらけのドナーカット版ではあるが、そこに価値はあったし、ラストもびっくりした。これって本来は、前作の方もドナーカットの作りなおしが必要では。

スコセッシの「最後の誘惑」は20年もあとの映画で、キリスト教団体から激しく攻撃されたわけだが、このモチーフをキリストではないキャラでやるのは可能だった。だが一作目の段階で、このことに気付いたカトリック教徒から殺人予告を受けたとドナーが語っている。
https://screenrant.com/superman-movie-religious-themes-response-richard-donner/
敬虔な浄土宗徒の私にしてみれば、このメタファーはどうでもいいし、結婚を許されない神父のなり手がアレなために教会がスマイルアップ事務所的になり、フランスだけで被害者が20万人みたいなひどい話を想起するぐらいであるが、モラルの問題として自己犠牲ってのは誰にでもわかる。仏教にだって即身仏はある。余談だがキリスト教の博愛主義ってコーカソイドの暴力性の裏返しであって、ほかの宗教を認めないし、スコセッシも攻撃されたわけである。

ただドナーは、客を楽しませることを最上位におくモラルの高いクリエイターだ。そこまで深刻な話をしたかったわけではなく、絵空事をリアルにするために共感可能なジレンマを挿入しただけ。だからブランドー先生より、本作最大の問題は、プロデューサーからの要求でクライマックスのグルグルシーンを一作目に取られたことにあるだろう。取られたのはグルグルだけではなく、わてはロイスが好きでんねんでお馴染みの恋愛要素までが、そこで蕩尽されてしまった。でも、おかげで一作目がよくなったということは否定しきれない。インタビューでも、3人の悪者が核ミサイルで開放されてしまうというのが一作目の終わりとされており、クライマックスがほかに必要だと思われる。そう考えると、パート2はいずれにしても出がらしなのだ。悪者に勝つ方法もコンフィデンスマンみたいで、スーパーマンのマーチが気まずく響く。最後、アラスカで一生懸命に生活している中年男をおやじ狩りにして終わり。このドナーカットのほうが、時間の巻き戻しの描き方が面白くて、もったいないことをしたものだ。ただ、1ほどエモーショナルではなかった。

それはそうと、オリジナルでもドナー版でも、クラーク・ケントはヤリ逃げをしたともいえる。この方法で、女性と行為に及んでは忘れてもらうというプレイを繰り返すことが可能だ。妊娠したらまたグルグル。だがキリストのメタファーとしては、それこそ「最後の誘惑」のように家族を作るってことが本来のハピネスであるということになる。そして、スーパーマンとして生きるのは結構だけれども、彼が地球人を守るべき立場なら、本当は子供を残すのがサステナブルで明るい家族計画ではなかろうか。そして、もしヒトにならないとロイスと結婚できないのであれば、悪者の中にいた女、Ursaを相手にするしかクリプトン人の末裔を残す方法はない。DCコミックはともかく、映画の設定ではそうなる。ヒーローってのは精神性だけではなれず、戦争だから最後は物量がものをいうのだ。本作が取りも直さずその証明になっている。

なんかそういう身もふたもないことを言いたくなる本作の出来ではあるが、無理やり作れって言った手前、ファンダム的には文句を言いづらいところはあっただろう。結局、冒頭のリーヴへのメッセージが一番熱かったし、そこで満足するべきものだったのね。

そういや、ロイスがこの女に「スーパーマンって欲がないのね」とブス扱いされて、字幕では「あなたも見習ったら?」とつまんない返しになっているが、原語では「あんたもあっちこっち、手直ししたほうがいいわよ!」と女らしい煽り返しになっている。
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