静かな鳥

ワンダー 君は太陽の静かな鳥のレビュー・感想・評価

ワンダー 君は太陽(2017年製作の映画)
3.6
現実は残酷だ。
世の中において私たちは「普通でいること」を暗に求められ、その曖昧かつ不明瞭な「普通」の定義からあぶれてしまった人間は好奇の目に晒される。学校という場所では尚更。高校生の自分には身に覚えのありすぎる光景だし、誰しも多かれ少なかれ思い当たる節があるだろう。

そんな現実を生きる私たちにとって、優しさに満ち溢れたこの物語は、あまりにも夢のまた夢、理想にしか過ぎないのかもしれない。だが、鑑賞中に幾度となく心打たれる瞬間があったのは何故なのだろう。それは恐らく、作り手が観客をちゃんと"信じてくれている"、そして私たちに"委ねてくれる"作品だからではないか。



遺伝子疾患により、他の子とは違う顔を持って生まれてきた少年オギーを描いた本作では、登場人物へ常に温かい眼差しが注がれている。それは何も、オギーただ一人だけに向けられたものではない。彼を軸に姉のヴィアや親友のジャック・ウィルなど、次々視点を入れ替えながらお話を展開させていく(扉の開け閉めがその切り替えの合図になっている)ことで、オギーとその周囲の人々それぞれの思いが詳らかに語られる。その結果、一人の少年の物語から「私たち」の物語、そして「あなた」の物語へと昇華されているのが素晴らしい。尚且つ、ストーリーが進行するにつれ個々人の本心や思惑が明らかになっていく群像劇に近いプロットは、"他者をよく「見ること」"という本作のテーマをまさに体現するものになっていて巧み。
ハロウィンや野外学習、その他諸々のイベントがオギーの成長の場として上手く物語に組み込まれているので、「1年間」という時間経過をしっかり肌で実感できるのにも唸らされる。

キャスト陣も皆好演している。『ルーム』に引き続きジェイコブ・トレンブレイは流石の一言。過保護には決してせずに息子を見守る母ジュリア・ロバーツ。オギーを初めて学校へと送り出した日に、それまで学習部屋であったのであろう一室に一人佇む姿が印象的。オーウェン・ウィルソン演じる父親はいつも最高。犬もめちゃくちゃ可愛い。
あと、ジャック・ウィル(ノア・ジュプ)がある事をしでかしてしまった際、担任に抱きつきうわっと泣くシーンには何とも言えない良さがある。ヴィアの親友だったミランダ(ダニエル・ローズ・ラッセル)の持つ"オギー家を羨む目線"は、こういう系統の作品群において意外と新しいのでは?

でも個人的にはやはり、姉ヴィア(イザベラ・ヴィドヴィッチ)のパートに一番感情移入させられた。両親の関心が絶えず弟にいきがちな中、"手のかからない子"としていなければならない苦悩。弟のことを大事に思っているからこそ、彼女は「自分のことも見てほしい」という心の底に隠した願いとの狭間で揺れ動く。同じ演劇部のジャスティン(ナジ・ジーター)に、「私は一人っ子」とウソをついてしまう気持ちもよく分かる。

ヴィアが急遽、主役を張ることになる演劇のシークエンスがとても好きだ。スポットライトを浴びながら彼女の発する劇の台詞が、本人の抑え込んでいた思いと一体となり、特別な輝きを放つ。あなたの人生の主役は紛れもなくあなた自身、というエール。主人公的存在を明確にしない作劇がここでも効いてくる。オギーという"太陽"と、彼に照らされて変化していく周囲の人物たち="惑星"の関係性が次第に塗り替えられていく。

誰もが皆、他者からの輝きを受ける"惑星"であると同時に、人を輝かせる"太陽"なのだ。オギーから派生した勇気が人々の意識や"見る目"を変え、それによって、彼も周りに支えられながら成長していくという豊かな相互関係。受容し合うことの大切さを忘れかけている今の時代だからこそ、重みのある繋がりだろう。
友達との関係が急にギクシャクするのは、言わば"あるある"な訳で特段珍しいものではない。ヴィアの言っていたように、オギーが抱える悩みの中には私たちにも通ずる普遍的なものもある。彼だけが「特別」なのでは決してない。彼も等身大の一人の少年なのであって、また、私たち一人一人がともに「特別」であるのだ。



しかし、上記の場面が自分にとってあまりにクライマックスすぎたこともあり、それからの筋運びはややダレるというか間延びして感じた。話を綺麗に締めるための"後片付け"を見せられている気分というか…
サマーキャンプに行くオギーを見送る父親の「振り返りもしない」という台詞にはグッとくるのだけれど、その後の7年生とのケンカは、取ってつけたような感じで苦手。

加えて、話を少し巻き戻すが理科研究大会のシーン。オギーとジャック・ウィルが作った巨大カメラ装置が大ウケしているのに対し、いじめっ子ジュリアン(ブライス・ガイザー)の火山模型は人気がなく、挙句の果てには噴火の赤い粉が彼の取り巻きの子の顔にぶっかかる。あの演出は、オギーたち、そして観客の"溜飲を下げる"という目的が先走りしてしまっている気がして、かなり違和感を覚えた。後半の「犬がどうなったか」を役者の表情だけで観る者に理解させるような繊細な演出が良かっただけに、あの安易な対比のチグハグさが非常に勿体ない。

チグハグと言えば、ジュリアンの結末にもそう感じた。そもそも彼のことを描くにはとても尺が足りていない。本来なら、多視点構成の中に彼を入れるべきだったのかも(現に、原作小説のスピンオフ「もうひとつのワンダー」ではジュリアンにフォーカスが当てられているようだ)。校長先生との面会シーンの実にビターな決着が良かっただけに、ラストシーンで拍手をする皆に紛れてさりげなく登場しているのは解せない。結局どっちつかずにお茶を濁した雰囲気になっていて残念。けれども、この作品の世界観から逸脱するようなジュリアンの両親を、しっかりと逃げずに捉えたのには誠実さを感じる。それに、ジュリアンを含めクラスメイトのサマーや担任のブラウン先生、"おケツ校長"等の人物背景を、彼らの物語を、もっとちゃんと知りたい!…と、スクリーンからはみ出た部分に観客が思いを馳せてしまう時点で、前述した"他者をよく「見ること」"というテーマが十分伝わっている証拠なので、そういう意味では成功なのかも。

✴︎

他人と面と向き合うのには、誰だって恐怖を有する。誰もがその恐怖と闘っている。だが、勇気を振り絞り、一歩踏み出し、壁を打ち破った瞬間に世界は変わる。"son"が"sun"へ覆されるのと同じように。
相手をよく「見ること」で、世界は広がっていく。私たちの周囲には、まだ知らないものが無限に溢れているのだ。未知で溢れた宇宙のように。
冒頭とラストで反復される"ジャンプするオギー"。背景に映っているものが、宇宙の柄の壁紙から本物の宇宙へと変化するのも、それを示しているかのよう。
下を向き「靴」から人を見定め、宇宙服のヘルメットをつけ、空想だけに留まっていたオギーが、そのヘルメットを外して前を向く。行動に移す。"顔は過去を示す地図"。ラストのオギーの見せる表情が、その台詞を裏付ける。

人とは違っているところ、変わっているところ。それは恥ずべきことなんかじゃなく、それぞれの立派な「個性」である。最初のモノローグで、オギーは"ordinary"という単語を何度も言う。「普通」という呪いに囚われ、闘う私たち。本作は全ての「普通じゃない」私たちを肯定してくれる、まさしくワンダーな映画だ。



*余談
最近劇場で観た他作品を想起させるようなちょっとした要素(表面的なものばかりだけれど)が多い映画だったなぁと思う。
げっぷは言うまでもなく『万引き家族』と『フロリダ・プロジェクト』だし、優しさに満ち満ちた世界観は『ブリグズビー・ベア』。ミランダがオギーのことを「トム少佐」と呼ぶのはDavid Bowieの "Space Oddity"からの引用だが、『ワンダーストラック』でもこの曲がキーとして使われていた。ヴィアがおばあちゃんとコニーアイランドの砂浜で話す回想に何処と無くデジャヴを感じたと思ったら、本編開始前の予告で流れていた『女と男の観覧車』の舞台が50年代のその場所だからだ、と後になって気づく。
また、これは過去の作品になってしまうけれど、劇中2回ほどかかるThe White Stripesの“We're Going To Be Friends”になんか聞き覚えがあるなぁと思って調べてみたら、『ナポレオン・ダイナマイト』(2004)のOP曲だった。『バス男』という酷い邦題が付けられたことで有名な作品。ヘンテコな青春モノだけど、こちらも面白いですよ。
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