Kamiyo

浮雲のKamiyoのレビュー・感想・評価

浮雲(1955年製作の映画)
3.5
1955年 ”浮雲(うきぐも)”監督 成瀬巳喜男
原作 林芙美子  脚色 水木洋子

この物語の背景には戦争という物があって、そこの部分が戦後生まれの人間には分からないですが、男と女の関係はいつの時代もあまり変わらない物だと思わせてくれます。

初めての成瀬作品鑑賞。
高峰秀子の彼女が最もきれいな頃ではないだろうか。
小津監督曰く「成瀬の「浮雲」は俺には撮れない作品だ」と言ったとか。しかも成瀬監督と言えば「浮雲」と言われるくらいの名作と評されている作品だ。
とりあえず先入観は置いといてまずは観てみた。。
うーん、確かに高峰秀子さんの美しさはありだ。
しかしだ、森雅之さん演じるプレーボーイに
疑問を感じた。モテ過ぎだし、女が吸い寄せられるように次から次へとくっつくのだ。
そこに高峰さん演じるゆき子が一途な愛で
最後まで一緒にいようとする。

太平洋戦争中の1943年(昭和十八年)、農林省のタイピストとして仏印(ベトナム)へ渡った幸田ゆき子(高峰秀子)は、そこで農林省技師の富岡(森雅之)と出会った。富岡には妻がいることを承知の上で二人は愛し合う。やがて終戦となり、妻と別れて君を待っている、と約束して富岡は先に帰国した。おくれて引揚げたゆき子が富岡を訪ねると、彼は妻と別れていないばかりか、その態度は煮え切らなかった、途方にくれたゆき子はGHQ米国人のパンパンにまでなりますが、それでも2人は別れられないまま、関係を続けていきます。戦時中の愛し合った思い出に引きずられ、
終戦後の時代、愛想と別れを繰り返しながら、ただ堕ちていく、男と女のこの不条理な関係。
敗戦後の日本の時代としては斬新だったのではないか。

富岡は口だけで生活力もない不誠実などうしようもない人間なのだが、何故か女に持てる。ゆき子も惚れた弱みで、男を忘れられない。
なぜこの男か?僕にはわからない。自分だったら、とっとこんな自分勝手で、煮え切らない男なぞいつまでも係わらない。ゆき子も何回も愛想をつかそうとするのだができない。
ゆき子は生きるためにGHQ米国人のパンパンしたり、彼女の処女を奪った義兄に囲われたりするのだが、彼女が愛しているのは富岡だけだ。こんな男にそれほど一途になれるのか理解に苦しむ。結局最後は病気を押して男といっしょに一年中雨が降り続くという屋久島まで落ちていく…。

まあ、成瀬監督は男と女の「腐れ縁」を描かせたら天才なのかもしれないが、「名作」と評価される
所以がイマイチわからない。時代がそうさせるのか?
現代の男女観がそうさせるのか?はわからないが
敗戦後の日本を舞台に繰り広げられる男と女の「腐れ縁」関係の物語は、高峰さん演じる「ユキコ」が
あまりにも一途すぎて呆れ果ててしまう。

戦後の混乱と男女関係の乱れを描いた作品にしては、東宝ブランドらしくエグイシーンがなく
なんとなく奇麗にまとめられている。(義理の兄に暴行されるというシーンもあるからだ)

戦後の混乱よりも、現代の男女関係の乱れの方が凄まじいので「浮雲」レベルを観ても
なんとも感じなくなってきてしまっているのかもしれない。マヒしていることは決していい事ではないのだが。。
女の一途な愛を最後に悟る男。
うーん。。悲しすぎる。

森雅之のあのけだるい感じは確かに必見!僕はこのネクラい感じがあまり馴染めなかった!(心底移入出来ない悔しさっ)。。。。。。。。。。。。岡田茉莉子が美しい。

ゆき子の男運の悪さ、
こんな男を愛さなければ・・・
理性で解決出来ない男女の仲。
日本映画を代表する一本・・・
そう言われるとちょっと首を傾げてしまいますね。
不倫というより、二人の腐れ縁を描いた。
好き、嫌い、が分かれそうだ。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

富岡とゆき子は何故ここまでに惹かれあうと聞かれて脚本の水木洋子は「体の相性が良かったからに決まっているじゃない」と言ったそうだ。恋愛映画において身体の相性というのは軽視されがちであるが、考えてみれば身体の相性というのは全くもって偶然の一致だ。性格や外見の好みといったものは、ある程度事前に選り好みができる。ところが身体の相性となるとそうはいかない。男女の仲になって初めて良し悪しが明かされる。そう考えると実は身体の相性というのも運命なのではないかと思えてしまう。
身体の相性という運命に従って愛し合わずにいられない悲しい男と女の性の物語なのだ。

体の相性が良いからと話す、水木洋子にはうんざりしましたが、突き詰めてしまうと男女の関係に体の相性が大事なのはあながち間違っていないかもしれないと複雑な気持ちになりました。
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