永遠とは始まりもなく終わりもないものである。
そして始まらず終わらないものは絶対に疑いをかけれないもの、言い換えれば必然的なものだと言える。
なので永遠とは必然的なものであると解釈できる。
例えば、
1+1=2
という数式は必然的だ。
時間の流れに左右されることもなく、絶対に1+1=2という型式に疑う余地がない。
言い換えれば、1+1=2は始まりも終わりも持たない。
始まりも終わりもないということは永遠であった。
よって、永遠とは必然である。
本作は死を間近に控えた詩人が、かくかくしかじかな事情の永遠を掴み取ろうとする物語と言えるのだと思う。
詩人アレクサンドレはこれまでの人生を通して、自分を"よそ者"だったと思っている。
親の愛に応えることが出来ず、妻の愛し方がわからない。
娘夫婦にもいまいち心を通わせきれていない。
よそ者であるということは自分の人生は不確実で疑うべき状態だ。
この時点ではアレクサンドレの人生は必然ではなく偶然。
あってもなくてもよかった人生。
そんな暗闇の中で難破したかのような感覚の中で、唯一"よそ者"ではなくなるのが自分の言葉を自分の中から発見した瞬間だけ。
感情とは人さまざまで、一つとして同じ感情なんてものはありえないから、自分の言葉を確知することは自分にしか出来ない。
なので自分の言葉というものが現実に存在させることはアレクサンドレにしか出来ないので、その言葉は必然。
この瞬間のアレクサンドレの人生は、"なくてはならなかった人生"である。
だからこの瞬間だけ満たされる。
とっさの機転を利かせて救い出したアルバニアの少年と同じ精神の難民であったアレクサンドレが目指すべきは、言葉を買い歩き人生讃歌を歌い上げた19世紀の詩人ソロモスのように、認識を増やし必然をより多く確知すること。
その時に人生は美しいものとして認識できるのだ。
アレクサンドレが言う、
「全てが真実で全てが真実を待っている」
とは全てのものが自分にとって必然になり得る。
言い換えれば、自分の人生を絶対になくてはならなかったものにし得るということなのだと思う。
それは暗い内省の雨に打たれなければ得ることの無い認識だ。
もし、それを認識できたとするならば、その雨の先の明日の長さは永遠(必然)にして一日である。
永遠を見据えたアレクサンドレの眼前には際限なく海と霧が広がるのみだ。