せいか

聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディアのせいかのネタバレレビュー・内容・結末

3.0

このレビューはネタバレを含みます

自分用メモ

9.6視聴。レンタルDVD。
きっかけ:ランティモス作品を観ていっている流れで。


タイトルからも伺えるように(なんなら作中でも、娘が優秀なレポートの中で取り上げていたと話にも出るように)、本作は『アウリスのイピゲニア』が下地にあるという前提で観ることもできる。一応公式的にもそこは公表しているらしい。
なので、主人公がアガメムノンで、妻がクリュムタイムネストラ、娘がイピゲニアで、息子が鹿。少年がアルテミスあたりで当てはめて観られるとも思う。……が、思っていたよりはそこまで下地にはなっていなかったので、なんとなく似ているところもあるかな程度のものかなあとも思う。作中でキャロルが歌われた時になんとなく思ったが、本作の不気味な人智を超えた感じはどちらかというとtrpgのCoCのほうが親和性高そうな気もした。

ランティモス作品はこれまでに、女王陛下、籠の中、ロブスター、そして本作を観てきたが、本作だけいささか毛色が異なる印象を受けた。他の作品は最初から最後まで作品の気持ち悪さにきもいきもいとのたうちながら観ていたのだが、本作は特にそんなことはなかった。人間同士の会話も普通なら、犬要素も普通だし、セックス描写もまあマトモで気持ち悪さがなく、特に最後のところでは鑑賞しながらおったまげていた。
とはいえ、他作品にも見られてきた、人間の獣性をタールで煮詰めたような、世界を暗く見るような眼差しは形を変えながらも健在であった。本作は鑑賞後の気持ちがやるせないというか、なまじいかにもなキモさがなくなって美しさで飾っている分、胸糞一辺倒というか。

本作はそもそもの原因が心臓外科医である主人公が飲酒をした上での手術ミスによって少年の父親が死んだ(らしい)ということに端を発し、その罪が外科医の家族三人に向かって降りかかり、彼女たちの誰か一人を犠牲として主人公自身が殺さないと全員死んでいくという呪いとなって現れる。ただし、この手術ミスというものも数人の口を通して語られるだけで、実際のところどうだったのかはベールで覆われてしまっている。単なるとばっちりかもしれないわけである。
主人公に近づく少年は不気味かつ妙に冷静なもので、別に主人公を心から憎く思っているような感じはしないが、目には目を歯には歯をという感じで(実際のハンムラビ法典は身分による差別とかがあるが、それはともかく)、こうなったのも仕方のないことだという様子である。奇病に関しても特に人間が何かをやったというよりも、人を超えた何かの呪いのような形で、そのへんは最後までそういうものとして描かれている。
子ども達も母親も様々な形で呪いの原因は知るのだが、かといって主人公をせめる様子はなく、命を惜しがるわりに、それに関しては受け入れていたりするのもいちいち不気味である。

それはともかく、本作のキモはそういうなんか不思議だなーで済むところではなく、人間同士のやり取りにある。彼ら彼女らが見せるエゴの応酬なのである。幸福そうだった裕福な家族の皮が剥がれて獣性を見せる有り様なのである。
妻は少年から主人公の不倫というでまかせの不和の種を撒かれると途端になし崩しになるし、自分の命は惜しいので、子供らが苦しむ中で主人公を誘惑し、犠牲は子供にしようとさえ持ちかける。少年の父親のオペの情報を得るために(これだって夫への不信の現れである)麻酔医にオーラルセックスをしたりと、だいぶひどい。誰が死ぬかの選択の場に呼ばれたときも夫が気に入っていたドレスをあえて着たりもする。
娘はとにかくいちばん生き汚さを見せ、父母にも少年にもすがりつき、いい子を演じる。うまくことが運ばなくて脱走した後、父母に、私、いい子じゃなかったわよね、私を殺したらいいわとしおらしい態度で上っ面の犠牲の精神を見せるのがこわい。そのくせ、弟の前では、死ぬのは弟だと決めつけた上で話を進め、死んだらその音楽プレーヤーちょうだいねという話をするわけで、ほんとこわい。弟が血の涙を流していよいよ呪いが成就しそうになったときの「死んじゃう!」の叫びも嘘臭く、計算高く、ろくなものではない。
彼女らに対して真っ先に呪いが発動したまだ幼い息子だけが無垢な存在であった。彼こそ聖なる鹿であるわけである。まだ呪いのことを知らない父母に、テストが嫌だったのだろうと判断されても文句も言わず、無理やりドーナツを口に詰め込まれても大人しく、また無理やり歩く練習をさせられて何度床に叩きつけられてもそれを受け入れる。父親が秘密にしていることを言い合おう、お前の年の頃には自慰を覚えて、興味本位で父親のペニスをしごいてみたりもしたとかいうとんでもない告白をされても動じず、自分には秘密はないのだと無邪気に答える。母や姉と違って他者の犠牲を願いもせず、彼がやるのはただ、父親に言われていたように髪を切り、それについて彼に話し、自分には親友が三人いるという話をするくらいなのである。ほかにあからさまに命乞いをするときも、前にお母さんと同じ仕事につきたいといっていたけど、それはお母さんを喜ばせるためで、ほんとはお父さんと同じ仕事につきたいと言うくらいである。これもどこまで打算的な発言だったのかはこちらには分からないものである(が、子供に何か言われて主人公が泣いたのはここくらいか)。

父親はといえば、ほとんど最初から子供のどちらかを殺す前提で(いろいろあらがいつつも)悩んでいたように思う。どちらのほうが優秀かだとか(すごく残酷である)。彼に生殺与奪権があることを理解しているので特に母娘からはお涙ちょうだい的にすがりつかれたり、散々なのである。
最終的にルーレットのようにして(目隠しバッドみたいな)自分で判断はせず、銃の引き金をいたずらに引いて、たまたま当たったらみたいなむちゃくちゃな方法で選ばれたのが息子だったわけである。自分の意思の放棄の上で聖なる鹿を撃ち殺しての大団円。胸糞である。

ラスト、主人公、母、娘は、いつも主人公が少年と会うのに使っていたダイナーにいて、そこに少年がやってくる。遠巻きに視線を投げ合ったのち、三人は食事もろくに済まさずにそのまま彼を振り返りながら帰って行く。少年は水を飲みながらそれを見送ってエンド。胸糞である。

無言の圧があるエンドロールの直前には一瞬だけバッハの『herr, unser herrscer』が流れ、やるせなさに拍車をかけもする。胸糞である。
というか、ランティモス作品は神の存在を感じないというか、どこまでも人間の汚さに焦点を当てているところがあると思うのだが、本作ではキャロルを歌っていたり、そもそもイピゲニアの話を出していたり、神はにおわされているのだなあ。かなり無機質なものではあるが。神というものが犠牲を求めるなら、そりゃ美しく無垢なもののほうがいいわなという感じもするし、醜い人間であることを露呈した母娘とこれからもこの世で生きていく主人公にはとことん救いは与えられないのだなあとも思いもする。でもそもそもこうなった以上はどうあっても遺恨は残るわけで(それこそギリシア悲劇的な負の連鎖である)、ある意味最適解ではあるのかもしれないけれど、やるせない。

みんな(息子くんのぞく)自己弁護や自分は間違ってないという態度を押しつけていて、そこが問題なんだろうなと思う次第。そんなだからその汚さからあぶれたものが生贄になる。
せいか

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