くまちゃん

聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディアのくまちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

4.0

このレビューはネタバレを含みます

切開され、剥き出しで鼓動する心臓のアップから始まる今作。ヨルゴス・ランティモス監督はなんとも観客の不安と不穏と不快感を煽るのがうまい。

外科医スティーブンは眼科医の妻と二人の子供と暮らしているが、多幸感のない機械的な冷たさがある。セリフの一言一言が抑揚に乏しく感情が薄いのだ。

劇中スティーブンの娘キムが提出した「イピゲネイアの悲劇」に関する論文を褒められる場面があるが、その「イピゲネイアの悲劇」を下敷きにしたのが今作である。

スティーブンはとある少年マーティンを気にかけているようだが2人の関係性が読めない。同僚には娘の友達だと嘘をつき、腕時計をプレゼントしたりする。
マーティンはスティーブンを慕っているように見えるが、スティーブンはマーティンに一定の距離をとる。この距離感もなんとも気持ちが悪い。
後にスティーブンはマーティンの父を手術中に死なせてしまった事が語られ、さらに飲酒していたことも明かされる。
罪の意識からその息子であるマーティンを世話していた。
妻アナがスティーブンの断酒に言及しており、おそらくこの手術をきっかけに酒をやめたものと思われる。

同監督の「籠の中の乙女」と同様、家族の中に異物が混入することで不条理スイッチがオンになる。

ある日息子ボブは歩けなくなる。
マーティンによれば生贄を捧げなければ家族に悲劇がおとずれるという。
歩けなくなり、食欲がなくなり、目から出血し、死にいたる。
マーティンは一体何者なのか。
亡くなった父親の代わりにスティーブンの家族を贄としバランスを取らなければならない。そこに論理的な説明はない。マーティン曰くこれはメタファー。
故に不条理なのだ。

ランティモス監督に通じている性的な場面に関して、これほど色気無く演出できるのがすごい。
トップレスを露わにしているのは美人女優ニコール・キッドマン。しかしそこには欲情を掻き立てられる色は感じず、あるのは生々しさとそれに反する冷たさのみ。性欲と食欲は回路が繋がっており、そう考えると食事場面の汚さは理にかなっていると言えるのではないだろうか。
特にマーティンがパスタを食べる場面が観客を不快にさせる。白いシャツにソースを飛散させながら、咀嚼音とフォークの金属音が鳴り響く。絶対一緒に食事したくないタイプだ。

「籠の中の乙女」では外界と隔絶された家の中で、「ロブスター」では恋愛強制施設、もしくは森の中で狂気じみた厳粛な規則に縛られる。今作もマーティンによって規則が設けられる。

父を奪われたマーティンはスティーブンを父にしようとしたのか。体毛の濃さを比較するあたりは血の繋がりを求めているようにも見える。

カメラがズームインとズームアウトを繰り返し、時にはキャラクターに追従する。画作りはシンメトリックでスタンリー・キューブリックを彷彿とさせる。
キャラクターの表情や観客に寄り添うことのないサディスティックなカメラワーク。

今作は外科医は他人の生命を司り神のような存在である。そんな傲慢な神もどきに本物の神が鉄槌をくだす物語であり、つまり神の復讐譚と言えるだろう。
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