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聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディアのlentoのレビュー・感想・評価

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映画がその領分として、最も雄弁に物語ろうとするものは、テーマでもモチーフでもドラマでもなく、もしくは人物や世界像でもなく、それらを総合したうえで最終的には消失していくような、空間描写と時間描写の織りなす構成感なのかもしれない。

それは当然ながら、映像と音によってもたらされる。そうした構成(演出)のもつ力を、あらためて感じさせてくれる作品だった。

またこの意味において、二重底や三重底のような構造にもなっていたかもしれない。最初の底は、ホラー/スリラーとしてのそれであり、二番目の底は、暗喩や象徴それ自身について語ることであり、最後の底には、それらいっさいを含めた意味での構成(演出)がある。

こうしたメタレベルのものを作品として企図とする際には、スリラーやホラーというジャンルは、観る側に一定の緊張を強いることで、弛緩することなく作品の語りに引き寄せられるため、親和性が高いのかもしれない。



タイトルの『The Killing of a Sacred Deer』(聖なる鹿を殺して)については、ギリシャ神話にそうしたエピソードが存在するという、おそらく直感の通りであり、神々と人々との間に描かれた筋の通らない(場合によっては筋の通り過ぎる)不条理な運命が設定されているという程度のものに感じる。

描かれる人物それぞれについても、僕個人の感覚で言うなら、10歳くらいの頃に、ここに描かれる程度の人間の本性ならすでに知っており、具体的に関わりのない彼らに対して、今さら嫌悪感を抱くようなものでもない(そして全員が僕自身の姿でもあった)。むしろその程度の認識にとどまっていることに、別の意味での嫌悪や苛立ちを感じていたかもしれない(もしかするとマーティンのように)。

そのように描かれるドラマは、父と息子、母と息子、父と娘、母と娘、夫と妻、夫婦と友人といった関係において、すべて破綻していくことになる。しかしこれもまた、オイディプス神話などによって語り継がれてきた要素を反芻しているに過ぎない。そして父殺しの物語ならば、本作のような語りをまたずとも、たとえば『ブレードランナー』(リドリー・スコット監督, 1982年)を筆頭に、もっとずっと深く美しく、残酷に描いたものは存在する。

本作が構成(演出)それ自身を企図したものであり、かつ最大の見所のように僕が感じるのは、それぞれの人物の語るセリフや表情や所作などが、始まりから終わりまで、どこか切り詰められた演劇のようだったことにもよる。

やがて映画は、本作の主人公と言っても良いマーティン(バリー・コーガン)によって、この作品の成り立ちをセリフとして開示する。



Do you understand? It's metaphorical. My example, it's a metaphor. I mean, it's symbolic.

分かる? これはメタファーなんだ。このたとえは、メタファーなんだよ。つまり、シンボルなんだ。



このとき僕の脳裏にフラッシュバックしたのが、冒頭に生々しく示された心臓の描写だった。つまりマーティンからもたらされる運命が、映画の設定として何の説明もされない(説明できない。説明することに意味がない)ものとして存在するかぎり、彼のこのセリフもまた、本質的には劇中のものと関わりあうものではなく、オープニングのシーンから観てきたものはすべて、暗喩や象徴それ自身だったことになる。

それでは何を象徴や暗喩として描いていたのかと言えば、上記のようなドラマとしてのそれでしかない。またそのことに思い至ったとき、作品を支える最後の底が開かれることになる。

おそらくマーティンとして造形された人物は、作品の構成を支える純粋な軸であり、始まりからラストシーンに至るまで映される、あの印象的な瞳の奥行きのためにこそ存在している。そしていっさいのドラマも、浮遊するようなカメラワークも、ミニマルに刻まれる不吉な音楽も、それら映画としての語りが、彼の瞳を遠近法の消失点のようにして結ばれている。

この作品を観終わったあとに、不思議な清涼感が残る理由は、映画を映画たらしめる構成についての映画であったことや、それについて語る際の、透明に見通しのよい構成力と無縁ではないように思えてならない。
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