幽斎

聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディアの幽斎のレビュー・感想・評価

5.0
友人から「この映画どう言う意味?」と良く聞かれる。Yorgos Lanthimos監督はギリシャ人だが、古典を描くつもりは無いとインタビューで語った。ギリシャ悲劇詩人エウリピデスの「アウリスのイピゲネイア」の一節「聖なる鹿を射殺した」を現代風にインスパイアした作品。概略を知れば西洋古典学が分らなくても大丈夫。彼はデウス・エクスマキナが好きだが、ラストは正にソレだ。

目に焼き付く怪演を魅せたマーティン役Barry Keoghan(25歳)、彼は神では無く因果応報を語る「聖なる鹿」の代弁者。「鹿」とはマーティンの父を指し、彼が見下ろす神の目の様なカメラ・ワークが秀逸。神の所有物である鹿を殺した主人公Colin Farrellは、同じ様に大切なモノを自らの手で殺して贖罪と為す、これが表のルール。主人公が彼の母親を受け入れなかった時点で、悲劇を回避すべき選択は無かった。

アメリカは「自己責任原則」の社会で、自らの過失は自ら責任を負うが徹底してる。唯一の提案を拒否した主人公が死なない限り負の連鎖は終わらない、これが裏のルール。自ら命を絶つ事で、2つのルールが解消され、悪のスパイラルが止まる。キリスト教で自死は忌避されるが、鹿はメソポタミアのハンムラビ王の様に「目には目を」なのだ。自分の父親を奪ったのだから、替わりに為るのは当然だと。倍返しの様な過度な報復を禁じ、同等の懲罰に留めるのが本来の意味。鹿の紳士的な提案は、主人公の浅はかさで脆くも崩れ去った。

家族関係も極めて特異、主人公は娘を愛し、母親は息子を愛す、主人公は己の存在を脅かす息子を、生贄でも差し出すつもりで選択した。美しい妻を精神的に奪われるかもしれない、家長としての存在意義を失うかもしれない、主人公に害を及ぼすのは息子しかないと。自分で書いてて虫唾が走る。

助かるのは娘との暗示も有る。娘の「イピゲネイア」の論文が良く出来てると、先生が主人公に語るシーン、此処でギリシャ悲劇と明確に語られる。私も劇場で?でしたので帰り道で速攻ググりました(笑)。これが娘を悲劇のヒロインと解釈する理由で有り、運命を理解してる彼女は、最後まで生き残ると確信した。

スパゲティを食べながら父親の話をするシーン。これは鹿の代弁者である彼に父親が憑依し、殺された憎しみで威圧的な雰囲気で警告する「これからお前らの家族を平らげるぞ」と。食べるだけで台詞は無く、演技だけで底なしの怖さを演出する屈指の名シーンだ。

Nicole Kidman、51歳!ファンとしては車のシーンだけでお釣りが来る。オスカー女優が全身麻酔プレイ、最高の奥さんですね。自分だけは助かりたいと色気で迫り、迷う事無く相手に平伏す。親なら自分を殺しても子供は助けて欲しいと懇願するのが当たり前、最低な母親ですね。

ラストのダイナーのシーン。「イピゲネイア」には続きが有る、最愛の息子を殺された母が夫を殺す(裏ルール完成)、次に父が好きだった娘が母を殺す。娘が最後にポテトを食べる意味は、マーティンの台詞「ポテトは大好き、だから一番最後に食べるんだ」つまり娘=ポテト、最後に食べる=俺が貰う、ケチャップ(血)を付けるのは、マーティンへのサイン。相思相愛を確認し2人は結ばれる。母は死ぬ運命では無いが、この先2人の邪魔だから殺すのだ。これが本当のエンディング。

「見るんじゃなかった」「分らんけど良いもの見た」どちらも正解だと思います。本作は人間の本質を現代社会に準え「ありのままに」描いた悲劇に過ぎない。誰だって死にたくはない、私だって。
幽斎

幽斎