ケーティー

エルネストのケーティーのレビュー・感想・評価

エルネスト(2017年製作の映画)
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これまでのチェ・ゲバラ像を一変させる作品。ラストで自分はわかった。映画的な表現と構成の上手さか光る。

ぜひ、もう一度観たい。
そう思った作品である。


予備知識なし、事前予告も観ずに試写会を鑑賞。観る前は、てっきりチェ・ゲバラと日本人(正確には日系人)が、がっつり交流する話だと思い込んでおり、上映前のトークショー(渡部陽一さんと吉木りささんという異色の組み合わせだったが、映画で感じたことを素直にご自身の言葉で話されていてこれがよかった)でも、チェ・ゲバラの人間像がよくわかったなどとゲストが話しており、ますます勝手な想像が膨らんでいた。そのため、チェ・ゲバラとフレディ前村はあまり交流せず、あくまでも日系人・フレディ前村の生涯を描く映画という構成・スタイルに、始めは戸惑いもあった。(最もこれは予習不足の私が悪い)

しかし、この作品の最も面白いところは、フレディ前村という男を描き切ることで、チェ・ゲバラの人間像をわからせるという構成になっていることである。始めは戸惑いもあり、また話のリズムがずっと同じで単調に感じ眠くなったりもした。しかし、ラストシーン。「エルネスト!」と呼ばれ、オダギリジョーさん演じるフレディ前村が振り向いた時、これはフレディ前村を通してチェ・ゲバラを描く映画だったんだとハッと気づいた。それは衝撃に近く、この時初めてこの映画の面白さ、そして、構成の上手さがわかった。

これまでとは違うチェ・ゲバラの人間像を描く。これは、オープニングのシーンから仕掛けが出来ている。冒頭で流れるチェ・ゲバラ本人の肉声と当時の内戦などの映像。ここには、真っ先に私たちがイメージするチェ・ゲバラ像。すなわち、カリスマ性があって、まさしく勇猛果敢。そのイメージを出す。しかし、この映画はすぐさまこのチェ・ゲバラのイメージを崩しに行く。

それが、広島のシーンだ。広島に訪れるチェ・ゲバラの姿は弱々しい。もちろん、政府に予告なく広島に向かうなど、まさしく世間がイメージする(あるいはそう思いたいと思う)チェ・ゲバラ像のイメージに則った行動もとる。しかし、広島で原爆の資料などを見学するチェ・ゲバラは、冒頭で自由のために戦うことの意義を強く語る様子に比べると、どこか弱々しいのだ。だが、ここに、試写会前のトークショーで渡部陽一さんも強く主張していた(※1)ゲバラの人間的な優しさが全面的に現れているのである。そして、それこそが本作の伝えたいチェ・ゲバラ像なのではないかと感じた。

広島のシーンの後は、この映画の本編とも呼ぶべきフレディ前村のドラマがラストまで続く。先に描写が単調と述べたが、これはあくまでも話のリズムや会話のテンポの問題(※2)であり、そのストーリーは実にドラマチックである。
ネタバレになるので詳しくは書かないが、ある女性との交流や自由のために戦う姿は、愛を貫くフレディ前村を鮮明にする。そして、そのいつも愛を大切にする姿勢は、決して誰かを徒に攻撃することに転じたりはしない。もちろん、革命軍の一員として闘いはするのだが、終盤でのフレディはひたすら愛(人間愛)のために堪え忍ぶ。その姿が印象的だ。

しかし、映画はフレディ前村の死をあっけなく終わらせる。そして、ラストの前に突然また広島に戻すのだ。キューバの大将ではなく少将が来ても大したことないと皆記者は興味を示さない中、一人チェ・ゲバラに同行した永山絢斗さん演じる若い青年記者。彼もまた、必ずしも取材時はチェ・ゲバラが熱烈に好きなわけでもなかったのに、彼は一人路面電車の中で、チェ・ゲバラの死の記事を読み、泣いているのである。彼は広島で、チェ・ゲバラの本当の優しさに触れ、彼に対する想いを変えたのである、

そして、映画のラスト。何もない真っ暗闇のジャングルをひたすら歩くフレディ前村を描く。そして、その時初めて、彼は「エルネスト!」と呼ばれ、振り向くのである。その時、私は冒頭で触れたように、このある種不器用で、ただひたすら愛のために活動に勤しむフレディ前村は、まさしくこの映画が伝えたかったチェ・ゲバラの優しさ、人間的魅力そのものを表しており、フレディ前村を通してチェ・ゲバラを描く映画だったんだとハッとさせられたのである。

一見無骨で、淡々とした映画なのだが、実にうまい構成である。
だから、フレディ前村を通して描く、チェ・ゲバラ。この視点をもって、もう一度本作を観たいと強く思った。

硬派だが巧みないい作品である。


※1)トークショーで渡部陽一さんは、チェ・ゲバラが元々医師であったこと、また、写真家でもあったこと(チェ・ゲバラの撮る写真には写真が観るものに優しく語りかけてくるような魅力があるという)に触れ、また、彼と実際に話したことのある一般人が、みな優しく穏やかな人だと語ったことに触れ、そういうチェ・ゲバラの人間性がこの映画には強く出ていると主張していた。

※2)もっともここには脚本監督を兼任することの限界があるのかもしれない。どうしても会話のパリエーションなどどの人も似ていて、その人ならではの台詞のリズムみたいなものが弱かったり、会話のやり取りのテンポが一定なのである。例えば、「七人の侍」が多様なシーンと人物で魅了するのは、脚本家が複数であったことが少なからず影響しているはずであり、本作のような登場人物の多い軍事ものではそうした工夫も必要だったかもしれない。