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ゴダールの映画史 第8章 徴(しるし)は至る所にのharunomaのレビュー・感想・評価

5.0
青山真治とゴダールが同じ年に亡くなる、今年は喪に服す間もない。
私が亡くなれば、シネマは死ぬだろう(あるいは映画は映写されなくなった時)とは、予告ではなく事実であり、小津しかり、フォード然。
ゴダールは大往生であろう。予告通り『アワーミュージック』で晩年様式の最後の35mmフィルムが始まり、『イメージの本』で綴じられた。

• アワーミュージック Notre musique (2004年)
• ゴダール・ソシアリスム Film Socialisme (2010年)
• さらば、愛の言葉よ Adieu au Langage (2014年)
• イメージの本 The image book (2018年)

現代風俗

墓碑
多年にわたる禁欲の後、
    彼は六人の女性の海に身を投ぜしが、
今やメレアガルの燃え木の如く火を消されて、
    波騒ぐ海の岸辺に横たわる。

     波騒ぐ海の岸辺に
 
      止まれ、旅人よ


エズラ・パウンド
詩集 〈仮面(ペルソナ)〉
岩崎良三訳


勝手にしやがれ はドラゴン・タトゥーの女 (ルーニー・マーラ)へ最良の解答(存在の問いを掬い取るために速度は別の次元に担保すること)、セバーグとベルモンドのあの部屋の、あの間隙。勝手にしやがれ。ゴダール、応答不可能性、ふたつのショット/リヴァースショットそして観客、スクリーン、この世界の裂け目、小津。早すぎる、遅すぎるあの間隙は、名づけ得ない不意打ちの愛を幼年期の映像に見る。
ヌーヴェルヴァーグとはなんだったか。
映画は、スタジオから都市で、河で、橋で、路上で作られる、写真用イルフォード35mm高感度モノクロームフィルムとともに。
アメリカ映画から始まり、中心的主題としてロッセリーニ、ルノワールという二神。ゴダールはほとんど単独で、ソ連モンタージュ、ソニマージュへも向かう。
溝口健二。フォード、小津と続く。
革新的な脱構築ではない、低予算を逆手に取った技術的な創意工夫もさることながら、映画史の中において、中間の時代に位置する者(映画を観てしまった者)として、正統でしかない認識において、今目の前で撮りながら映画を映写していた。そしてゴダールだけがあまりにも美しい、ショットとモンタージュの活劇を思考しえた。あるいは存在の問いを付与する俳優たちの顔を。
オリヴェイラが、その『サンライズ』を封切りで観た証人として、長老(それにしても腕力とエロスがありすぎる)のような裁判長であるなら、ゴダールは立ったまま演説をする弁護士のように。青山真治は。
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