otomisan

十三人の刺客のotomisanのレビュー・感想・評価

十三人の刺客(1963年製作の映画)
4.1
 なかなか小気味よいのが中仙道下松での斉韶候通せん坊の件である。鉄砲隊を繰り出しての阻止に倅夫婦を奪われた牧野采女も鞘の勝ちを収めたと言ってもまあいいだろう。
 ならば、それで発砲を命じることができたろうか?おそらく、牧野の上司は鉄砲隊に牧野の下命があっても聞き入れぬようくれぐれも因果を含めていた事だろう。では、実弾を籠めずに形だけの威嚇で済まし得たかと言えばそうはいくまい。万一を懸念しようと、その時には必ず斉韶からいっときも、目の前に候が迫ろうとも狙いを外すまじと下知しただろう。こうした構えを示すのも尾張候の武士の一分に由来する。これは本件の結果、どう迂回路を取ろうと隣接苗木藩に通達した以上、同藩領、落合宿を目指さざるを得ない明石候の世間に対する見栄と同じものでもある。
 一方で牧野も射撃を命じる考えがあったろうか?これはまた一分の思いもなかったろう。仇である斉韶ではあるが倅のことは逆縁であり主君が仇討ちを認めない。それを私怨ゆえと通すとすれば公務を乱し君命に背く事で憚られる。だから、誅求の念止み難しとあれば職を退いて自ら鉄砲の腕を磨き木曽の山中に身を潜めるのだろう。尾張藩もそれをあえて追及はしまい。
 では、斉韶が鉄砲に怯まぬ狂人であればどうか?当然鉄砲の出る幕ではない。斉韶、領内侵入のそのとき牧野が自ら差し違える存念であったろうし、そうなる事を当人が切に願ったに違いない。二人して狂を発したそれだけのことである。斉韶が退去ののち牧野が割腹するのも、斉韶を自ら討つような稀有なことであれ、また落合宿での討伐であれ目前の義挙に加われない宮仕えの身、下松領から一歩も出られない身を悔めばこその憤死であろう。

 意外なこともある。討伐隊長、島田=千恵蔵の「武士の一分」の受け止め方である。島田は斉韶防衛隊長、鬼頭=良平の一撃を主君のいのちを預かった鬼頭の武士の一分と受け止めてそれを立てる。その理屈が分かるようで分からないが、武士の一分もつまるところ私事に過ぎないと割り切られてしまったような気がする。ただ、そのわたくしとはいかなるものか。
 島田はかつて、幕臣としては御目見え以下だった鬼頭の天稟を買っていて、落合宿のこのときには好敵手を得た思い、おそらく生涯二度とこんな男とは立ち会えまいとの思いだったのだろう。だから、あえて打ち込みを受け、死ぬ気の中に生を使い果たしてもよい気になったのだ。しかし、それは島田の一分ではあっても武士である事と何のかかわりがあるだろう?わたくしとはそういう事である。
 明らかに鬼頭の一念とは別格、君臣の事に依拠しない思い、またこの討伐を義挙であるとして不義の斉韶を討つものならなぜその臣、おおやけに対する逆徒、鬼頭の一撃を撥ね退けない理由があろうか、つまりは鬼頭に対する島田のわたくしに発する思いゆえの事であったと感じられる。
 と、言ったもののやはりしっくり来ない。一方で旗本でありながら老中の示唆に基づき討伐を引き受ける島田はおおやけの益を優先するわたくしを君主に上回る者と認めるわけで、君命に背く自らを責めるこころのもう一方は鬼頭の手による自裁の代行を願うものでもあったのだろうか。

 おなじように、二百両で自分を売った浪人、佐原=水島もまた娑婆でのことの清算に金をきれいに使い果たして、陣ごしらえでは役不足と偵察の加役を喜々と申し受け、戦場ではいつの間にか斬り死していた。一介の浪人のなにが幕臣島田と同じかと言えば、主を持たないこちらだから至って私事としてこの挙を引き受けたわけであり、この二人のわたくしはおおやけに組する者という事になる。
 この佐原は武士のなんのとは言わないし財布を改められなければ当人とさえ気付かれまい。死ぬことが義挙であると承知あったとしてもそこで働いておそらくは死ぬであろうことにどんな一分の持ち合わせが必要だろう。
 それならば、ほかの討伐隊員らはどうだろう。彼らがその人間の如何なるかを明らかにされないのは、島田や佐原とは異なる立場、徒歩目付島田新左衛門配下、つまり島田と職制上、主従関係にあり、まさに彼等こそ隊長に対する武士の一分から天下非公認、将軍の意に反する斉韶討伐に参加する事をよしとした人たちなのである。
 彼らが陪臣であれば将軍も所詮、島田の主君に過ぎないのであるが、おそらくそうではない。彼等もまた小者ながら幕臣ではあるのだろう。ただし、そこにこそ彼らのこの挙への覚悟のほどが知れるのであり、また、それでも島田に命を預けようという彼らの人となりも察せられるのだ。

 そしてもうひと方、島田の食客、平山=晃である。この人も剣術指南のように島田に仕える人で小者目付と同様の人だが意外にも刀を失えばただの人になる。二本差しが侍なら、無腰の平山はもはや何者でもないというわけか、そのようにして、なんの一分だろうと役に立たない窮地の身が停戦信号ののちに斃されるとは一種皮肉っぽく映る。むしろ、平山を斃す者として平山以上に何の一分もない者を寄越すところに意が払われたのかもしれない。
 その平山を討つ斉韶の臣、浅川こそ、もう一分どころではない。禄を失いかねない事態に晒されやけくそのように平山に挑むが主君で暗君の斉韶の消息など知った事かと当たるを幸い切り倒し逃げ延びれば武士の一分も何もあろうか。
 候が死ぬなら暗君に仕える不運も晴れて、悪行への加担とも縁が切れる。やっと生きた心地がした泥田の中で斉韶のいない明るい今が禄を失うのも何らかの因縁で詰め腹を切らされるのもまだ先の事として純粋に喜べる。
 思えば、鬼頭と共に士分の最底辺からのし上がってここまで、なんの「一分」とやらを肝に銘じた事があろうか。背伸びして生きて就いた狂気の暗君のお世話など左遷も同然、何の名誉があろう。禄の積み上がりだけを喜びとして終にこの挙に遭遇し、解放と同時に将来も絶たれるのだ。
 これほど親近感を覚える相手も他にいないだろう。

 そう感じれば、鬼頭もまた同様である。小者の時代、直参の島田を妬み、暗君の身辺を守る事でとうとう島田を凌ぐ千石取りの栄進を約束される。それで果たして江戸家老、間宮のように候の面前で諌死する腹などあったのだろうか?
 そこでふと、前年の「椿三十郎」室戸半兵衛=仲代が思い起こされる。同じ半兵衛同士、敵役として悪人に肩入れして死んでゆくが、明らかに一分など持たなかった室戸に対して後を追った鬼頭は一分を島田に認められてしまい、その一言に敗北を認めざるを得なくなる。しかし、それはありもしない一分を汲んでもらってしまった事への暗君に到底恩顧など感じ得ない軽輩出の屈辱の念であるかもしれない。
 島田があれで死ぬのかどうか、願わくば当分死なずに済んでほしいだろう。死なれてともに冥途で嘘の付けない身の上となり「一分などあろうものか」と告げざるを得ない事に、島田を前にその恥辱を隠しおおせない事に一分が立たなくなるのを鬼頭は恐れざるを得ないのだ。
 いっそのこと「椿」の室戸のようにあっさりと島田に斬られればそんな思いをせずに済んだろう。しかし、室戸を斬った三十郎が室戸同様の野良犬であるのと異なり、れっきとした直参の島田にはおおやけへのこころざしも主君への忠義もあるのである。そこで斉韶も斬るし鬼頭に斬られもするのだ。そうした人間の違いを見せつけられて事切れるのが鬼頭の不幸であり、室戸もまた、その三十郎に斬られる事は野良犬が一分を持ち得るとしてもそれが悪党連との組し易きに流された末であり得ようかと糾される事に他ならないのである。
otomisan

otomisan