ルサチマ

SEX配達人 おんな届けます/宙ぶらりん/弁当屋の人妻のルサチマのレビュー・感想・評価

5.0
2021年8月14日 @アテネフランセ

堀禎一そして/あるいは現代映画。
何度見ているか分からないほど、偏愛する映画であるが、ついに貴重なフィルム上映で見れたことに感謝。

木下千花によるアフタートークも堀禎一映画について語る上で非常に重要な演出意識の開かれた指摘がなされていて刺激を受けた。木下千花は堀禎一が映画の人物を誰一人見下さないと語っていたが、その指摘は全くその通りで、堀禎一の映画に出てくる人物はもれなく情けなくて弱いが切実に悶々と自問自答をしている。
人生の関係を全てリセットして何処かへ消え去りたいと願う姿を堀禎一は決して断罪することなく、死ぬことと消え去ることを決して一緒くたにしようともしない。消え去りたいと思うことそれ自体は当然情け無いことなのだろうが、それでもそんな情けのない人物たちがつかの間の僥倖とでもいうように他者へ呼びかけあう姿が本当に美しくて好きだ。そう言う映画を見つめていたいと思う(恐れ多くも自分でも撮りたいとも思っている)。

堀禎一について語るとき、傑作とか天才という言葉を軽々しく使うことはできないが、少なくとも自分にとって彼のフィルモグラフィーほど映画制作へ向かう上での勇気と覚悟を与えてくれるものはない。

デビュー作にして慎ましく野心というものを捨て去り、徹底して映画に奉仕する姿勢を今回の上映で再確認した。

この慎ましく恐ろしい堀禎一映画の幹に相当するであろうと考えられるのは、その後の彼の映画にも連なる空間の建築だ。なぜなら空間の中で脱家父長制(結婚こそしてないが)をすることこそが、小津から通じる堀禎一映画の主題と見做せるはずだからだ。

低予算であるが故か、繰り返し反復される空間として、主人公たちの部屋、弁当屋、ラブホテル、デリヘルの事務所がある。

後者の二つの空間が人の出入りを繰り返し描くものであるとすれば、前者二つの空間は少なくとも前半部において出入りのなき空間として提示される。

男はデリヘルの車を運転することであらゆる空間への行き来を可能としているが、何よりも注目すべきは人々が出入りする扉/窓の存在にある。

しかしそんな男も女もカットが変われば突如自分たちの生活する部屋/弁当屋へと辿り着いており、空間への出入りなど描かれることなく監獄のような場としてこの二つの空間が描かれる。

言うまでもなくイカフライ男は弁当屋の女を監獄から連れ出すための存在であって、彼女たちのデートには駅、駅構内、駅前へと移動の実践がなされており、イカフライ男が最終的に結ばれるデリヘル嬢も彼の部屋まで一段一段階段を登ることが描かれる。まるで移動こそが愛を確かめるために必要な行為であるかのように反復されている。

もちろん移動を経たからといって愛が実ると言うわけではない。移動はあくまで互いの意思疎通の仕方を確認するための身振りであり、映画冒頭に商店街を歩く主人公と弁当屋の女はまさにここで明らかな子供への意識の違いを提示しているのであるし、イカフライ男と弁当屋の女のデートの結末といえば、弁当屋の女は自ら監獄へ立ち戻ることを宣言する。

男に目を向けると、彼は車を運転することで「どこか遠くへ行こう」と言葉では言うものの、そうせざるを得ないかのように仕方なく自分たちの部屋へと辿り着いてしまう。彼は移動手段を剥奪されて強制的に監獄へ収容されていると言ってもいい。

ここに男女の決定的な差異がある。進んで監獄へ向かう女と不本意ながら強制収容されてしまう男。

そんな監獄的生活空間が変容するのはまさに映画が後半へ向かう中間点。それまでひた隠しにされていた主人公と弁当屋の女の部屋の窓が映される瞬間だ。

監獄の部屋と監獄の弁当屋を行き来するのみであった女が自らの判断で男を監獄の部屋に取り残し、自らの足で部屋を出る。
この身振りによって脱家父長制は実践される。

弁当屋の女は同僚の先輩の家へと泊まり、夜が明けると、弁当屋で働く二人の女は、扉などなくたって白いカーテンのかかった窓さえあればいとも簡単に移動を空間を越える。そして彼女たちは自らの足としての自転車を誇らしげに軽やかに走らす。

当然この同僚の女もまた、夫の男性性の剥奪されている存在であることは指摘する必要がある。

情けない男たちを持つ女は自らの肉体の身振りを通じて男がもつ足(足の爪)を我が物としている。

移動手段を得たヒロインの弁当屋の女は観客が気づいた時にはもう再び監獄の弁当屋に進んで辿り着く。

そして今度は主人公の男が車などの移動手段を持ち合わせることなく、弁当屋の監獄へと、こちらも進んで収容される。

そこにはもはや移動で愛を確かめ合う必要もない。女も男も対等にいつでも移動できる手段を獲得した上で、「終わるまで待つ」優しさとともに、二人きりの監獄へと立ち戻ることを進んで実践すること。

その決断の重さに、既存の家族形態さらには社会の新たな創造は賭けられている。

この映画を単なる恋愛映画と見做すのではなく、革命映画として捉えた時、フォードや小津から引き受けた映画の歴史性を背負いながら現代映画は新たな地平を切り拓く。

2020年3月22日

2回目。本当にとてつもない映画だ。
芝居の導線とカメラのポジションの正確さに痺れる。弁当屋の女が家を出ていくところのシーンで、恋人のための飲み物をマグカップに注いだにもかかわらず、恋人の自分勝手な振る舞いに愛想を尽かして、コップは持ったものの恋人の移動したテーブルの上にはコップを置かずに自分のテーブルのところに置いてしまう瞬間に演出家としての凄さを本当に目の当たりにした。
わざとフレームにあわないアフレコの音を入れることで、本来なら説明にしかならないはずの言葉が空虚な音響効果の一つとして機能する。
白のカーテンによる部屋の中/外の繋ぎと、その直後の自転車と電車の並走も、このために繰り返されていた日常化した電車の走行音が奇跡に感じる。
ラストの弁当屋の切り返し、ありがとう。


2018年9月23日 @シネマヴェーラ

中学の時に見た青山真治『Helpless』以来の本当に打ちのめされる衝撃があった。
ルサチマ

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