シゲーニョ

君の名前で僕を呼んでのシゲーニョのレビュー・感想・評価

君の名前で僕を呼んで(2017年製作の映画)
4.4
随分昔のハナシで恐縮だが…
社会人になりたての80年代末から90年代に入った頃だと思う。
それまで自分の周りで蔓延していた「ホモフォビア的思考」が融解し始めたと感じたことを、ボーッとだが覚えている。

多分、社会における同性愛者の存在が可視化されたことに起因するのだろう。
同性愛者の言論活動が始まったり、差別への裁判が起こされたり、専門の雑誌や漫画が街中の本屋で売られたり…。

但し、映画好きの自分にしてみれば、「蜘蛛女のキス(85年)」のエクトール・バベンコ、「マイ・プライベート・アイダホ(91年)」のガス・ヴァン・サント、「恍惚(92年)」のトム・ケイリン、「リビング・エンド(92年)」のグレッグ・アラキら、いわゆる「New Queer Cinema」の作家たちの台頭、それが所以であることに間違いない。

それらの作品群に惹かれたのは、それ以前の映画「真夜中のカーボーイ(69年)」や「ディア・ハンター(76年)」等にあった“親友”としての男たちの友愛描写が、同性愛解放ムードの世相に合わせて、変容したことに“新鮮さ”を感じたからだ。

なので、それから四半世紀を経て出会った本作「君の名前で僕を呼んで(17年)」も、鑑賞前の自分は、時代に則した“多様性を帯びた男の友情”(例えばBromance)を描いた佳作、その一編くらいの認識でしかなかった。

しかし観続けていくうちに、同性愛を題材にしつつも、“誰にでも覚えのある恋”の甘さと苦味を情感豊かに描いた、ある種“普遍的”な恋愛作品だと気づき始める。

そして鑑賞後、劇場を出る頃には、同性愛を扱った作品であるとか、恋愛映画という以前に、思い出深き心の痛み=“青春の一瞬”を、ひたすら瑞々しく切り取った作品だったと、思い改めることになる…。

まぁ、本作にアンドレ・アシマンが2007年に執筆した同名原作小説が存在することや、あの「モーリス(87年)」のジェームズ・アイヴォリーが脚色として参加していたことなど、かなり後に知ったくらいの“予備知識ほぼゼロ状態”での鑑賞だったので、予想外の展開にビックリしたのも無理もないことかもしれない。

本作は1983年、北イタリアのクレーマを舞台に、そこにあるヴィラで両親とひと夏を過ごす17歳の少年エリオ(ティモシー・シャラメ)が主人公。
そんなエリオの前に現れたのが、大学教授の父サミュエル(マイケル・スタールバーグ)が助手として招き、6週間ほど同じ屋根の下で共に過ごすことになった、24歳のアメリカ人大学院生オリヴァー(アーミー・ハマー)。

オリヴァーを一目見るなり、エリオの胸が騒ぎ始める。
同年代の友だちと水泳やダンスを楽しみながらも、オリヴァーの一挙一動が気になってしようがない。
しかし、気持ちを悟られるのが怖くて、オリヴァーに対して、エリオは冷ややかな態度をとってしまう…。

オリヴァーを演じたアーミー・ハマーはインタビューでこう述べている。
「監督のルカ・グァダニーノが描きたかったのは、人間の感情の揺れで、恋をした経験のある者なら誰でも共感する物語だ」

そして、グァダニーノはクランクイン前、主役を演じるシャラメにこんなメモを渡した。
「この映画で起きていることは、人間の普遍的な経験なんだ」

本作では、ホモセクシャルを気にする人間は誰もいない。
ただ2人の“人間”が、自然に、純粋に、恋に落ちるだけだ。
そして恋をすることが如何に美しく、且つ切ないことかを再認識させられてしまう。

エリオがオリヴァーに惹かれたのは、オリヴァーの持つ“自由さ”“屈託の無さ”だろう。

初対面の時も、自分の部屋を譲ってあげたのに、お礼の言葉は「Thanks!」の一言だけ。
親切心から街案内をしてやれば、自分のことを尋ねられたので、丁寧に答えれば「楽しそうだな…じゃあ、続きはまた後で!」と話の途中で、勝手にどこかに去っていってしまう。

その横柄で自信満々な態度に圧倒され、今までに出会った男性とは違う“何か”をオリヴァーに感じ取るエリオ。
一方のオリヴァーも、聡明で繊細なエリオに好感を抱いている様子で、積極的にスキンシップを仕掛けてくる。

エリオとオリヴァーの恋の駆け引きは、互いに仮面を着けてプレイする“ゲーム”のようだ。
誘惑するような素振り、仕草が其処彼処にある。

真夏の真っ昼間、上半身裸でバレーボールに興じる場面。
同年代の女の子たちはオリヴァーを見て「彼、すごくステキ♡♡」とキャアキャア騒いでいる。
それにムカつくエリオが、友だちにミネラルウォーターを渡そうとすると、オリヴァーが横から乱暴に取り上げ、先に口をつける。その時、エリオのオリヴァーを見る目付きは「この乱暴者のマナー知らず!!」という感じだ。

だが、オリヴァーは意に介さず、「ボクに緊張しているのか?もっとリラックスしろよ(笑)」と、エリオの肩を突然揉み始める。
悶々とするエリオ。最後は居た堪れなくなり、足早に去っていってしまう。

それに負けじとエリオも仕掛ける。
自慢のピアノの腕前を披露するのだ。
弾くのはバッハの「Capriccio sopra la lontananza del fratello dilettissimo」。
エリオとちょうど同じ年の頃、17歳のバッハが、音楽家の兄に捧げた曲だ。

わざと色々なバージョンのバッハを弾くのは、オリヴァーの関心を惹くためだろう。
だが、オリヴァーが望む曲調で弾くことなど絶対にしない。
「この曲を、フランツ・リストが弾いている感じにしてみたんだ!」
「リストの演奏を、今度はフェルチョ・ブゾーニがアレンジした感じさ!」

しかしながら、7つ年上のオリヴァーもそれなりに恋の経験をしてきたのだろう。
パーティーのチークタイムで、女の子と踊り、当てつけなのか、堂々とキスをする。
それを、タバコをふかしながら、遠目で見つめるエリオの耳に聴こえてくるのが、ジョー・エスポジートの「Lady Lady Lady(83年)」。
映画「フラッシュダンス(83年)」の劇中、主人公のアレックスが心を寄せるニックと歩く、印象的な場面で使用された曲だ。

「♪〜レディ、レディ、レディ、レディ/ボクをひとりぼっちにしないで/キミにちょっと触れたいんだ/キミもボクにそうしたいんだろ〜♪」

もちろん、歌詞中の「レディ」とはオリヴァーのこと。
エリオがようやく、オリヴァーに抱く自分の恋心に気づいた瞬間だ…。

そんな微妙な恋の駆け引き、それに伴う緊張感に変化が訪れるのが、第一次大戦でのピアーヴェ川の戦い、その記念碑の前で「ここでは17万人もの人が亡くなった」と、エリオがオリヴァーに教えるシーン。

恋をしていることを自覚したエリオが、初めてオリヴァーに自分の気持ちを告げる場面だ。

とにかく、二人の距離感が素晴らしい。
記念碑を囲むように、最初は微妙な距離で会話する二人だったが、オリヴァーがエリオの歴史の知識、その深さに驚き、「キミは知らないことはあるのか?」と問いかけると、エリオは「ボクは大事なことは知らないんだ」と言って、オリヴァーからわざと遠ざかる。

「大事なことってなんだ?」と再び問いかけるオリヴァーだが、エリオの思いを察したのか距離を更に広げる。
そんなオリヴァーを見て、エリオはポツリと呟く。
「知っているくせに…知ってほしいんだ」

バックに流れるのはラヴェルの組曲「Miroirs」の「Une Barque sur L'Ocean」。
寄せては返す波に揺蕩う小舟をイメージした曲で、オリヴァーへの恋心で激しく揺れるエリオにまさにピッタリだ。

このシーンの演出意図について、グァダニーノはこう語っている。
「この記念碑は、二人の間を阻むバリアなんだ」

そんなバリアも、互いが自分の気持ちに正直になることで消失していく。

サイクリングで訪れた、西日が差す川辺で言葉を交わす二人。
オリヴァー「キミの話し方が好きだ。
      いつも自信無さげだけど…」
エリオ「あなたを失望させたくないからだ」
オリヴァー「ボクがキミを嫌うとでも思っているのかい?」

そこで、エリオは勇気を出して一歩大きく踏み出し、オリヴァーに近づく。
もう一歩前に出れば、キスさえできる距離だ。
しかし、エリオは、ただ微笑みを浮かべるだけ。
喜びと戸惑いが混在しながらも、その笑顔にはオリヴァーへの愛の強さがしっかりと感じられる。

本作「君の名前で僕を呼んで」は、かつて自分が10代の頃に観たジャック・ロジエやエリック・ロメールの「夏休みの恋物語」を想起させつつも、あくまでも現代的な「青春映画」だ。

エリオとオリヴァーが泳ぎやサイクリングに興じたり、日光浴したり、カフェで過ごすという何気ない寄り添い方・その風景に、“ときめき”と“もどかしさ”が滲み出ている。
青春って、劇的な出来事ばかりじゃなく、こういった“ぼんやりした時間”があったことを思い出させ、観ていて鼻がツーンとしてくる(笑)。

古き良き時代の長閑で素朴な北イタリア。
のんびりと流れていく贅沢な時間。
その中で一進一退を繰り返しながらも、確かな愛情の絆を育んでいくエリオとオリヴァー。
その全てを端正な映像美と穏やかなテンポで描いていくルカ・グァダニーノの演出がまた筆舌に尽くしがたい。

本作には、グァダニーノ独特の作家性を充分に見て取ることができる。
自然豊かなロケーションを生かしたナチュラルな映像、建築・インテリアへのこだわり、そして繊細さの中に厳しい観察眼を利かせた人物描写だ。

本作は観続けていくと、エリオとオリヴァー以外の登場人物が、ドンドン背景化していくように思えてくる。
エリオの両親も、ガールフレンドのマルシア(エステール・ガレル)も、二人の恋路を邪魔しないかのように立ちまわる…。

このグァダニーノ独特の視点は、“酷薄さ”も感じる一方、逆にエリオの感情を引き立たせるアクセントになっている。
(この手法は、過去作「ミラノ、愛に生きる(09年)」の主人公が嫁いだ先のブルジョワ家族、次作の「サスペリア(19年)」の魔女たちの扱いでも、垣間見ることが出来る)

そして、背景化していたキャラが、エリオが迷ったり、落ち込んだりした時にだけ、前面に現れるのだ。
このサブキャラの立たせ方、活かし方が本当に絶妙だ。

パーティーの夜、湖でのデートに誘われたマルシアは、エリオが自分に沸き起こったオリヴァーへの思いを敢えて気づかないフリをしていることを、さりげなく指摘する。
「オリヴァーが女の子と踊っていたことに嫉妬して、私を誘ったの?」

母親のアネラ(アミラ・カサール)は、恋に悩む息子に16世紀フランスの小説「エプタメロン」を読み聞かせる。
それは身分違いの王女に恋した、若く美しい騎士の話。その想いを王女に告白すべきか否か…。
エリオは「そんなことを聞く勇気は、ボクには無い」と答えるのだが…。

そしてエリオの父親サミュエルは、人生に迷った息子を慰める。
終盤、父親が息子に語る言葉「Parce-que C'etait Lui, Parce-que C'etait Moi」は、間違いなくミシェル・ド・モンテーニュのエセー(随想録)「友情について」からの引用だ。

モンテーニュは3歳年上の男性ラ・ボエシーへの想いを綴っているが、それはプラトニックな友情について。
「僕たちの友情は、二人の魂が混じり合い、その繋ぎ目がわからないほどだ。もしも誰かになぜ彼が好きだったのかと問われても、“それは彼だったからだし、僕だったから”と答える以外に、表現の仕方がない」

しかしエリオの父親は、息子がオリヴァーに抱いた感情が友情だけでは無いことに気づいている。
だから、こう言葉を続けるのだ。

「感情を無視することは、あまりにも虚しい。
 痛みを葬るな…。その感情を心に満たすんだ」

生きていく上で、成長していく過程で、沸き起こる感情を抑えてはいけない。
心に響いたことを記憶することは、人生において、非常に大切なもの。
それを心にちゃんと仕舞って遠ざけてはいけない。
そして、相手が誰であろうと、人を愛することに優劣はないし、ましてや恥ずべきことではない。
そもそも愛情とはごく自然な感情であり、その喜びも哀しみも痛みもすべてをひっくるめて、かけがえのないほど素晴らしいものだと、父親は言っているのだろう。

親が息子にこんなに力強く、勇気を与える言葉を告げるシーンを、これまでに観た記憶がない。
親が子を思う、とてつもなく深い愛情を感じさせるシーンだ。

BGMはラヴェルの「Ma Mere L’Oye」
これは子供好きなラヴェルが、友人夫妻の子供たちのために作った曲である。


映像美に話題を転じれば、撮影監督サヨムプー・ムックディプロームのカメラワークが素晴らしい。

自分は過去作「ブンミおじさんの森(10年)」で、現実と非現実が“解ける空間”を作り上げた独特の映像美に、完璧にヤラられてしまったのだが、今回も期待に違わず、天候や自然を主役級に映し出すその撮影手法は、エリオたちの姿や心情を反映するかのようで、青春というものが“否が応でも最も眩しい時期”であることを主張している。

これは、本作が35ミリの単焦点レンズのみで撮影されたことも、重要なエッセンスとなっている。
単焦点レンズによって、光が多く取り込まれ、被写体にしかピントが合わず、周りがボケ足になるので、エリオたちの生き生きとした表情・演技が、より引き出される効果を生んでいる。

その一つが、夏の眩い日差しの下、エリオとオリヴァーが互いに、自分の思いを告白すべきか悩むシーン。
画面右にオリヴァーのクローズアップ。画面左にはサマーベッドに座るエリオ。
どちらが先に切り出すのか、その駆け引きが、フォーカスのインアウトによって巧妙に表現されている。

そして、XXXの日の明け方、恋滾る二人の未来を夢見るエリオの寝顔。
それを見つめるオリヴァーの顔が、彼の苦渋の胸の内を現すかの如く、わざとフォーカスをズラして、窓から差すバックライトのような朝日の中、うっすらと滲んで映し出される。

また、数フレームほどカット尻を早く切り上げるカッティング、編集の手法が斬新に思えた。

例えば、ピアノを弾き終わったエリオがオリヴァーのリアクションを探るために、椅子でクルッと回りながら振り返るシーン。オリヴァーが何か言いたげなところでカットアウトする。

また、中盤、よそよそしい態度のオリヴァーに不安を感じたエリオが言い寄る場面。
最後は仲直りして、両者は顔を近づけるのだが、キスしそうになる一歩手前で場面転換…。

もう少し登場人物の感情を共有したい、その先の行動を目で追っていきたいという欲求を、(ホンの半秒ほどだろうか…)敢えて切り上げて、観る側の想像に委ねるのだ。

蛇足ながら、ジェームズ・アイヴォリーが執筆した脚本には、二人が全裸になり、露骨なセックスシーンがあったが、グァダニーノは最初から描くことなど考えもしなかったそうだ。

「観客には彼らの心の機微に集中して欲しかった。見た目、性別の違いなど関係ない、純粋な初恋。そこで沸き起こる戸惑い、淡い感情だ」

これに付随する興味深いエピソードがある。
グァダニーノがメガホンをとることを決意する前、ティモシー・シャラメとアーミー・ハマーがサインした契約書には、フルヌードで撮影する旨の規定が書かれていたが、そこにはこんな注意書きが記されていたらしい。

「但し、正面からのヌード撮影は拒否できる」

これに文句をつけたのが、当時88歳のアイヴォリー。
「とても残念な気持ちだ。女性のヌードなら誰もそんなこと、気にも留めないはずなのに…。これは非常にアメリカ的な考えだと思う…(怒)」

(注:グァダニーノとアイヴォリーは共に、同性愛者であることをカムアウトしている。
ここからは勝手な憶測だが、アイヴォリーの怒りの矛を収めさせるためなのか、グァダニーノは草むらの上でエリオとオリヴァーがイチャイチャする場面を、アイヴォリーの代表作「モーリス」にオマージュを捧げるかのように、完コピして撮り上げている…)


最後に…

本作「君の名前で僕を呼んで」の主役二人を演じた、ティモシー・シャラメとアーミー・ハマーについて僅かながら記したい。

先ず、エリオを演じたシャラメだが、オッサンの自分が言うのもなんだが、スクリーンに映った時のキラキラ具合というか、その美麗さは、70年代の日本の少女漫画(特に萩尾望都の欧州が舞台のヤツ)から、そのまま飛び出してきたみたいだ。

その外見プラス、ナチュラルな表情や動作によって、単純な言葉では置き換えられない“心の動き”を繊細に表現してみせる。

10代の少年特有の、ホルモンの暴走でちょっとヘンになっている感じ、熱に浮かされて性的アイデンティティが揺らいでいる感じを、実に自然に演じているように感じてしまった。

特に印象的だったのが、ネタバレで恐縮だが、クライマックスでの暖炉の火を見つめる3分30秒に及ぶ長回しのシーン。
エリオが自分の人生を考える場面で、これは原作にもなく、撮影前にグァダニーノが決定稿を書き直したものらしい。

演じたシャラメによれば、とても難しいシーンだったらしく、無人のカメラで3テイク撮影された。
グァダニーノはテイク毎に、1回目はドライに、2回目はセミドライに、最終テイクはウェットにという具合で指示を与えたそうで、採用されたのは2テイク目のセミドライ。

感情や愛の記憶が激しく揺れ動く内面を表わす圧巻の芝居で、初鑑賞時、劇場にいた自分にも、エリオの感情が伝播して、嗚咽をちょっと漏らしそうになってしまったほどだ…。

頬に落ちる涙を拭いきれないエリオ。
聴こえてくるのは、スフィアン・スティーブンスのラブバラード「Vision of Gideon」と、かすかに暖炉でパチパチとはじける薪の音だけ…。

「♪〜あなたを苦しいほど深く愛した記憶/これは現実じゃなくビデオを観ているのだろうか?/あなたに触れ、あなたのぬくもりを感じたあの記憶はビデオなのだろうか?/愛のため、大好きな笑顔のために、ボクはあなたの腕に飛びこんだのに…/あれはビデオなのだろうか〜♪」

そして、エリオの目に映る謎めいた青年として、エリオを誘い、心を探りあって、堰をきるように愛に耽るキャラクターを演じたアーミー・ハマー。

劇中、序盤の演技では、常に自信ありげな態度を見せるが、その裏には何かが潜んでいるかのような“ミステリアスさ”さえも感じさせる。

ハマーは撮影当時をこう、振り返っている。
「同性同士の恋愛、2人の関係を表現するのは怖かった。演じる上でごまかしが利かないからだ。本作を成功させるには、2人の心の繋がりが重要なんだ。役者として、完全に心を無防備にして撮影現場に臨まなければいけない。自分を曝け出すことが怖かった」
(注:本作は、台本の順番通りの「順撮り」、時系列順に撮影されている)

グァダニーノは「ソーシャル・ネットワーク(10年)」で見事な合成で双子役を演じたハマーを観て、一瞬で恋に落ち、オリヴァー役のキャスティングを決めたそうだ。
おそらく、ハマーの少女漫画みたいな瞳に星が宿るような目元、そして男性的な骨格(196cm)をデフォルメしたような役作りが印象に残ったんだろう。

正直なところ、ハマーが演じたオリヴァーは、もっと若い役者(もしくは若く見える役者)が演じた方がベターだったと思う。
こう感じたのは自分だけかもしれないが、鑑賞中、オッサンが未成年をたらし込んでいるように見えるシーンが結構あった…。

オリヴァーの劇中での設定年齢が24歳と知ったのは、鑑賞してから随分後のことで、初見時は、相当苦労をして大学院生になった、三十路のオッサン役を演じていると思っていたのだ…(笑)。
(ちなみに撮影時の年齢だが、シャラメは20歳、ハマーは29歳…)

そんなハマー演じるオリヴァーを観ていて、愛くるしく感じるワンシーンがある。

パーティーの最中、ザ・サイケデリック・ファーズの「Love My Way(82年)」に乗せて、軽やかなステップで踊るシーンだ。

この曲は作詞を担当したボーカルのリチャード・バトラーによれば、自分のセクシャリティに悩む同性愛者へ「そんなこと、心配するな!」というメッセージを込めて書いた曲だそうで、オリヴァーがお気に入りになるのも納得の1曲。

「♪〜自分の生き方を愛するんだ/それが新しい道なんだ/ボクは自分の心に従うよ〜♪」

しかし、踊るアーミー・ハマーの動き・表情をよ〜く見ると、いまいちリズムに合ってなくて、なんか止むに止まれぬ感じで、わざとノリノリになって踊っている気がしてくる…。

実のところ、撮影現場では曲が一切かかっていなかったそうで、メトロノームの「カチカチ…」という単調な音だけを聴きながら、ハマーは無理クリ演じたらしい。
この場面は特に台詞がないので、同録である必要性がなく、撮影中に曲を流しても問題ないと思われるのだが、後日、ハマーは「人生最悪の撮影だった…(笑)」と本音を漏らしている。