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君の名前で僕を呼んでのlentoのレビュー・感想・評価

君の名前で僕を呼んで(2017年製作の映画)
4.5
北イタリアの白昼に浮かび、たなびくようにやがて消えていったのは、1人の青年と1人の少年が互いに眼差しあったものであり、交差するようにすれ違った、僕たちの心の震えそれ自身だったのではないか。

24歳の青年の名はオリヴァー(アーミー・ハマー)といい、17歳の少年の名はエリオ(ティモシー・シャラメ)といった。あなたがあなたの名を持つように、僕が僕の名を持つように。

上映時間という物理的な時間は、しかし、僕たちがそれぞれの名を生きる心理的な時間のなかで、映画という現象が終わると同時に、始まるところがある。そのようにして一瞬は、虚構の空のうちに永遠にとどまることになる。

誰にも見届けられなくとも。また、だからこそ。



Call Me By Your Name

君は僕であり、僕は君だから。24歳の青年がそう促した理由は、おそらくローティーンの少女であれば、ほとんど誰でもひそやかに抱いた感傷(センチメント)と、何も変わらない。しかし、彼女たちと同様に、彼もまた結ばれることが決してないことを知っていた。

17歳の少年にとって、その切実な感傷は後からやってきた。24歳の青年は、きっと以前から知っていた。

2人で町に自転車で出かけた際、少年は心のうちを青年に打ち明ける。打ち明けたかったのではなく、溺れないようにするためには、打ち明けるしかなかった。少年は、モーリス・ラヴェル(1875-1937年)の『洋上の小舟』(Une barque sur l'océan:組曲『鏡』の3曲目)さながらに、美しくも不吉に揺れ動く感情の波に飲まれるしかなかった。

不協和を多用した分散和音と、古典的な音楽構造とが融合したこの曲の美しさの根拠は、情緒的で感傷的な曲想のように見えながらも、実は(ラヴェルの多くの曲がそうであるように)音楽的な対立のなかにこそある。それは、美しさが原理的にもつ背反性と言ってみても良いかもしれない。

多言語(フランス語、イタリア語、英語、ドイツ語)で交わされる音節の豊かさもまた、ラヴェル的な分散和音のように映画全体の時間に散りばめられており、聴覚的で音楽的な感興に満ち溢れていた。

僕たちの耳は、それを無意識的に感じ取っている。

劇中で引き揚げられたギリシャ彫刻(紀元前4〜5世紀)さながらの少年の体に、ルネサンス期に生きたミケランジェロ(1475 - 1564)の彫刻のような青年の体が触れるとき、この時期の7歳の違いが、人類史の2000年ほどに大きく、しかし繰り返されるように近いことも。

考古学者の少年の父親は、そのことを美学的にも、経験的にもよく知っていた。美しい虚構としてこの2人を見つめる僕たち観客よりも、間違いなく深く切実に。

その声を聞きながら、少年の名が僕たちのものでもあったことを、僕たちはそれぞれに感じ取っている。そのとき虚構は虚構ではなくなり、捲(まく)り返すように、現実こそが虚構に支えられていたことを知る。

印象的に繰り返される熟した果実とハエの演出もまた、(ラヴェルの音楽がそうであるように)美しさを表層的なものにとどめようとはしない。この演出は、静かに涙を流し続ける少年に、ハエがとまるラストシーンにまで及ぶ。

まるで、フョードル・ドストエフスキー(1821-1881年)の書いた大恋愛小説『白痴』さながらに。同作に描かれる、ムイシュキン公爵とロゴージンという対称的な男2人が、ナスターシャという1人の女をめぐって交わされる三角関係のラストで、ロゴージンによって殺害されたナスターシャの部屋に描写された1匹のハエと、同様の効果を挙げていたのではないか。



恋は喪失されることによって宿命となり、恋愛へと至る。また人は、その恋愛に破れるという成熟を通して、やがて朽ちていく。そのようにして、生と死の泡沫(うたかた)が一瞬、北イタリアの風景にたなびいてみせた。

少年の流した涙は、あるいは恩寵(おんちょう)でもあることを、すれ違った僕たちは、そこに残された心の震えとして知っている。彼の名が、僕たちのものであるように。
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