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君の名前で僕を呼んでのmimotoxmimotoのレビュー・感想・評価

君の名前で僕を呼んで(2017年製作の映画)
5.0
今度こそ、これ以上好きになれる映画には、もう二度と出会えないかも知れない。

ティモシー・シャラメがエリオを演じたことの得難い奇跡。わたしはこれだけで生きていてよかったと、本当に思っている。
1983年の夏、北イタリアのどこかにエリオはいて、オリヴァーに恋をしたのだと思う。


それはいつからはじまっていたのだろう。
それは、ブルーの波打つシャツを着たあなたが車から降りてきたのを見たとき。
あなたがわたしの部屋のベッドに乱暴に倒れこんで眠っているのを見たとき。
あなたの胸元に光るダビデの星を見たとき。
あなたに街を案内したかったのに「Later!」と言って去っていくあなたを見ているしかなかったとき。
あなたが初めてわたしの肩に触れたとき。
一生忘れない恋は、いつから一生忘れない恋になったのだろう。

全てのシーン、全ての音、全ての光、全ての朝、全ての夜、全ての食べ物、全てのファッション、全ての台詞、わたしはこの映画の全てを愛している。

映画は美しい瞬間の連続で、わたしは全ての瞬間が特別だと知っているから、1秒たりとも逃してしまわないよう、全ての瞬間を心に焼きつける。
それはきっとオリヴァーも同じだっただろう。エリオとの全ての瞬間を心に刻み込む必要があることに、オリヴァーは最初から気がついていただろう。
他方、17歳のエリオはまだ気がついていないのだ。全ての瞬間が特別で、一生に一度しかない奇跡だということに。エリオは自分の気持ち、欲望に無邪気に真っ直ぐで、うらやましいくらい、時に過剰なほど積極的にオリヴァーを求める。その瞬間瞬間がいつか思い出になることに気がつかないまま、エリオは夏の光のように曇りなく輝いている。

だからこそ、オリヴァーが目の前からいなくなってしまうことに、この夏が永遠に去ってしまうことに、本当の意味で気がついたときのエリオの姿にわたしは打ちのめされる。夏の光は遠い思い出になる。

何回観ても、最後は「オリヴァー、てめえは許さねえからな」という荒れた気持ちになる。でも、エリオの無邪気な寝顔のとなりで、オリヴァーはどれだけ自分を責めただろうと思うと苦しくて仕方ない。オリヴァーはエリオとは違って、自分の本当の気持ちを、後ろに後ろに追いやるものが立ちはだかる人生を生きている。
I remember everything .
これはオリヴァーだからこその台詞だ。失うことを知っていたものだけが言える台詞だと思う。

エリオのお父さんがエリオに語りかける言葉は、これからのわたしの人生の指針になるだろう。悲しみも痛みも恐れない。なかったことになんてしてやるものか。

音楽の使い方もエモーショナルで、抜け目がない。エリオがオリヴァーの存在に心を踊らせるシーンで流れる喜びの洪水のようなジョン・アダムスの「Hallelujah Junction 」、両親がエリオに大切なことを語りかけるシーンで流れるのは優しい音色のクラシック「Le jardin feerique from Ma mere l’Oye」。この映画で流れる音楽は、明確な意味を持って反復される。あるときはエリオの内面を、あるときは両親の温かさを表現する。
そして、エリオとオリヴァーの初めての夜に流れるのはスフィアン・スティーブンス「Visions of Gideon」。「何でここで流すん?残酷じゃない?」と涙で窒息しそうになるけど、エリオとオリヴァーはこの瞬間をこれから何度も何度も、幻を追いかけるように思い出すのだから、絶対にここで「Visions of Gideon」を流す必要があるのだ。ラストシーンでまたこの曲が流れるとき、わたしは崩れ落ちるように泣いてしまう。全ての時は過ぎ去った、と冬の青白い光の中で打ちひしがれる。

わたしたちは、奇跡的な瞬間にいつも気がつかない。「ああ、あの時は特別だったのだ」と、いつも遅れて気がつく。そして気がついたときには、すでに思い出になっていて、遠くにある。
この瞬間が奇跡なのだと、いつでもそのときに気がつけたらいいのに。この瞬間に生ききろうと思えるのに。しかし、わたしたちはそれができない。
でも、だから、一生忘れられない恋がある。

手のひらから溢れていく奇跡的で美しい全ての瞬間をとらえているから、この映画は特別なのだ。


最後に。
原作もまごうことなき傑作だが、そこからエピソードの取捨選択をし、古代ギリシャという補助線を引いたジェームズ・アイヴォリーは神がかっている。

わたしの人生を変える作品。

Later!
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