まぬままおま

牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件 デジタル・リマスター版のまぬままおまのネタバレレビュー・内容・結末

4.5

このレビューはネタバレを含みます

「一つになれないなら、せめて二つだけでいよう」

と言ったのはクリープハイプであり同名タイトルのアルバムがあるのだが、私が本作の彼らと同様に高校生だった頃はよく聴いていた。

高校生の彼らは一つになれない。皆が成長の過程にあり一つのアイデンティティーに同定はされない。個が確立していないから、徒党を組まざる得ない。けれどその集団は必然的に友敵に別れることになる。であればこそ、恋愛関係は尚更ひとつになれない。小四と小明の関係を単に恋人関係と言っていいのかどうかは定かではないが、二人は他者の変えられなさを悟り、苦悩し、絶望し、それぞれの未来を進むことになる。

このことは、中国が大陸と台湾で一つになれない政治情勢や社会もまた個人の意志では変えられないことを反映しているような気がして時代性を確認できる。またイメージにおいても群像劇によって焦点が当てられる人物が大きく変わったり、場が家族や徒党や学校などに転換され断片化が起きている。しかしイメージの断片群はバスケットボールなどのモチーフによって接合されたり、またその断絶の偏差でリズムが生み出されている。このように明白な劇的さはないけれど、イメージを軽やかに接合させ一つの物語にすることは簡単なようでエドワード・ヤンだからできることな気がしている。さらにカメラワークも素晴らしく、小四が吹奏楽部が練習している場で小明を救うことを告げるあのショットは凄まじい。

小四と小明は二つだけでいようとする。しかしそれは大人なフリをしているだけだし、欺瞞だ。二人だけの世界は存在しないし、他者の変わっていく様には耐えられない。他者を把持して一つになりたい欲望が蠢く。その果てが二人の悲劇なのではないだろうか。一つになるための距離零の運動。それが抱き締めることであり、刃物の突き刺しとしての殺害なのだ。小四のTシャツは小明の血によって染まり、一つになる欲望は満たされる。しかし他者がモノになってしまったらどうしようもない。

「この世界は僕が照らしてみせる」
世界をよりよくしたい誠実な心情だし、画としても照明がとても印象的だ。しかし照らすことはよいことだけではない。時には目をつぶりたくなる真実があるかもしれない。そして光は闇と共にある。その闇で何が行われ、在るのかしらなければ、私たちは悲劇を再び繰り返す。そのためには絶望の断片を掬わなければならない。希望を語るのはそれからだ。