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牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件 デジタル・リマスター版の346のレビュー・感想・評価

4.4
少し前にクーリンチェの4Kを観に行った。そして、どのような感想を書こうかと考えて、結果、日が流れた。

その間に起きた個人的な出来事を羅列すると、腰痛が悪化するし、母からは意味不明なメールがくるし、意中の人からのラインがきて嬉しかったけど、やっぱりそのラインが途切れるし、突然、仕事のチャンスが舞い込んでくるし、といっても、まだそれを掴んでるわけではないし、久々にやったギャンブルで勝ってお金を稼いだけど、次の日に負けてなくなるし、家のお米が尽きたので買い行きたいけれど、そのお米を買って帰えるには腰の状態が悪すぎて困っている。…といったことぐらいか。

まぁ、そのように特別に何かが起きたわけではない日々だったのだけれど、いま、もしも、自分が誰かを殺してしまったとしたら、この特別ではなかった日々の出来事が持つ意味とはなんだろうと考える。直接的な動機は持ち合わせていない自分が、もし殺人を犯してしまったなら、取り調べ室でなにが動機だと語るのだろうか。

1961年に監督のエドワード・ヤンが実際に遭遇した、同じ学校の、それも同世代の少年による殺人事件。テレビから流れる報道を見つめながら、ヤン少年は、もしかしたら自分がその加害者だったかもしれないと考えたのではなかろうか。だとしたら、動機はなんだったのだろう、と。

その答えは、この映画のタイトルが「ある少年の殺人事件」ではなく、「クーリンチェ少年殺人事件」であることから読み取れないだろうか。この映画は、クーリンチェに住む少年が犯した殺人事件の物語であって、クーリンチェとはその少年の住む街であり、少年を取り巻く環境であり、少年の世界なのだ。そしてある日、少年はその世界の中心に出会ってしまう。そうして物語はその中心点に向かって収斂されていくのだが、正確には閉じていったとも言うべきであろう。

それは少女が、少年の世界そのものになってしまったから。関わり合うはずのなかったやり場のない苛立ちが、他者からの無関心が、自分への期待と失望が、その世界を肯定したい少年の手によって、少女に押し固められてしまったから。そうして少年は…。

これがエドワード・ヤンが考えた少年の動機であり、それは少年時代のエドワード・ヤンが生きた世界そのものなのだ。

ん?だとしたら、もし、いま自分が世界の中心と出会って、殺人を犯してそれが映画になるとしたなら、タイトルは「荻窪中年殺人事件」となるだろうか。…なんだこの、荻窪の中年が殺されてしまってる感じ。やだやだ。と話が横道に逸れてしまった。

とまぁ、この映画は昔、VHSで観てまして、その時は、すごく冗長に感じて眠たくなってしまって、監督の遺作であるヤンヤンも長いけどあれには全くをもって無駄がないのに比べて、この映画は絶対に編集でもっとカットできたと思ってたのですが、今回、4K版を観てみたらそのどうでもいい思っていた細部がどれだけ意味のあるものかということに気付かされて打ちのめされました。

ただ、たくさんの人に観てもらうにはやはり長い。そのハードルは高いですが…。
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