ナミモト

牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件 デジタル・リマスター版のナミモトのレビュー・感想・評価

4.9
つねに、グレイッシュな、靄がかかったような空と、気怠げな空気感に覆われている。

日中の家屋(かつて日本人将校が済んだ家屋)の仄暗さ、雨の降りしきる闇の中で瞬く裸電球や懐中電灯の光。映画の冒頭の、裸電球のともしびと、職員室でシャオスー自らがバットで割る電球。行き場の無いフラストレーションの向かう先に割れる、心のような裸電球の脆さは、少年少女たちの持つその儚さと重なり合う。
青春ものや学校ものにあるような、少年少女たちの健やかさを強調するような晴天や蒼天は無く、くぐもっているような、フラスコの中に滞留した煙に、ずっと周囲を取り囲まれているような印象。
銃や日本刀を簡単に少年少女たちが入手できてしまうこと。突然、向けられた銃口や、日中の光を反射する日本刀、それを所持する彼らの手の華奢さ。
ウエストサイドストーリーとも重なり合う、個々の未熟さ・臆病さを隠した正義感と、集団におさまること(所属意識)の心理が、複雑に絡まり合った結果の悲劇。

冒頭と最後に、ラジオから淡々と流れる、大学の合格発表のひとりひとりの名前。そこに将来、息子シャオスーの名前が呼ばれることを期待していたであろう父親の、その期待が外圧として、シャオスーを取り巻いている。
がむしゃらに期待に応えようなどと、シャオスーは思ってなどいなかっただろうが、試験の結果、夜間部に入学したことによって、少年グループの闘争に巻き込まれていく。結果としての、理不尽さ、そして、シャオメイが自らから離れていくことの理不尽さ(シャオメイからすれば、勝手にシャオスーが舞い上がっていたということなのだろうが、彼女もまた、誰かに寄り添うことでしか自分を支えられない一人であり、ハニー不在の中、寄り添える存在としてシャオスーを頼り、近寄った事は事実なのだ。過去にもその事に由来して、紛争の震源地のような不当な噂を立てられている)シャオスーをさらに、追い詰め、わだかまりは増幅していく。
シャオスーが、夜、倒れた酔っ払いの近所のおじさんに鈍器を持ち近づき、しかし、側溝に落ちたおじさんを最終的には助けるシーンに見られる、シャオスーの狂気(自分も力のある存在なのだと誇示したい気持が歪んだ形で殺人への欲求として表明している)とモラルとの間の振幅。

凄惨な事件はなぜ起きてしまったのか。なぜ周囲にいた人たちは気がつけなかったのか。なぜ避けられなかったのか。日々、あらゆる種類の社会の事件を、ニュースを通して知らされてしまう私たちは、常にこうした疑問を抱き、やりきれない気持を感じている。
本作は、実際にあった少年の犯した事件の背景を、未熟さを持った当事者たちの視点に立ち、それは誰しもが人生のある時点で経験してきたような、普遍的な心情と葛藤の問題の延長にあることとして、描いている。
その描き方は、決して同情心などではなく、厳しいまでに現実的な目線であり、この映画を観る私たちにも突き刺さってくる。

誰しもが、確かな人生を歩みたいと望んでいるが(もしくは、世の中が確かであってほしいと願っているが)、現実のこの世界は不完全で、決して確かなものなどなく、不安定な情勢がしきりに続くものであり、その中で生きる事は、生きづらく、悲しさが増幅していくようなやり切れなさを抱えざるを得なくて仕方がない時もある。悲惨な事件が起きた時ほど、私たちはそうした事態に向き合って、世の中の理不尽さや、自分の身の不確かさを感じ取る。
登場人物たちは、純粋さをいまだ残しているがために、大人たちが抱えている、世の中に対するやり切れなさを、顕著に反映してしまう。

4時間の長尺は、まったく苦痛ではなく、安易に事件の当事者たちの生い立ちなどをドラマティック(この子はこうだったから、こうなったのだ、のような短絡的な直結)に演出することなく、経過に起きた出来事を子細に描写し、事件の真相(私たちは真実を知りたがる、そんなものなど無いにも関わらず)などというものは、一つに収斂などできないということを示唆している。ひとりの人間が、たとえ罪を犯したとしても、ひとつの視点から全てを語り切れることなど無いように。
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