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最期の祈りのdm10foreverのレビュー・感想・評価

最期の祈り(2016年製作の映画)
3.9
【思い上がり】

僕が医療機関で働き始めてから早いもので25年近くが過ぎようとしている。
職業柄と言っていいのか、今まで数え切れないくらいの「命」が終わっていく場面にも立ち会ってきた。
僕自身はお医者さんではないので直接臨終に立ち会うことはほぼ無いけれど、一つの命に向き合うご家族や関係者とは沢山触れ合ってきた。

ただただ泣き崩れる方もいれば、淡々と表情一つ変えずに事務処理を済ませられる方、中には最期のその時に誰一人立ち会うこともなくひっそりと亡くなっていった方もいた・・・。
そういう場面に遭遇するたびに、「命」って一体何なんだろうか・・・っていう思いが去来する。

よく「命を懸けて君を守る!」なんてフレーズを映画とかで見聞きするけど、本当の意味での「命懸け」って何も一瞬のバカヂカラの話じゃなくて一生を懸けて行うことだと思うんですね。
命を懸けるってそれくらい重いものなんだと。

だからこそ、親は「命懸け」で子供を育てるし「命懸け」で子供を守る。
それは決して「その場、その場」なんてことは無くて、その人の「生き方」そのものなのかもしれない。

だからこそ、その命が終わること、失われることを人は悔やむ。
人工呼吸器に繋がれて、手足も拘束されて、鎮静剤で眠らされているだけの家族を前にして、それでも生きてほしいと願うのは、その人の「一生」の重さを知っているから・・・。


――僕が30歳のとき、母が亡くなった。
急性骨髄性白血病。
発病から亡くなるまでわずか3ヶ月というあっという間の出来事。

母は僕が小学校3年生の時に父と離婚して以来ずっと一人暮らしをしていた。
「子供たちの結婚式に出る時に親の苗字が違ったら変でしょ」と、あえて苗字も旧姓には戻さなかった。
まだ僕が幼かったという事もあって、そうそう頻繁に自分の意思で会いに行くことも出来ず、本当に年に1回くらいかな、母の家に遊びに行ってたのは。

でね、自分も大人になって車も持って自由にあちこち行けるようになって、これからどっちの親にも少しずつだけど親孝行しようかな・・・母からの電話でただ事ではない事態を知ったのは、ホントにそんな頃だった。

病院で病名を告げられたその日に即入。
結局そのまま一度も外に出ることはなかったんだけど、当時の僕の上司がとても理解のある方で「考えたくは無いけど万が一って事もある。後悔してほしくないから気が済むまでお母さんに付いていてあげなさい」と可能な限りの休みを与えてくれた。
僕は日中は出来る限り母の看病を優先し、夜になると自分の職場に行って自分しか出来ない業務をやって、ちょっとだけ家に帰って、また母の病院へ・・という生活を暫く続けた。

(これは体がもたないかも・・・)

最初こそそんな感情が頭を過ぎったけど、でも慣れとは凄いもんで、そんな生活にもあっという間にすっかり馴染んでいった。

それもこれもね、やっぱり感謝なんですよね。
離れて暮らしていてもずっと僕の身を案じてくれていた母に対して、僕はずっと何もしてあげることが出来なかったから、せめて母が苦しんでいるなら傍にいて背中をさすってあげたいと。

ただただ、それだけだった・・・。

――知らないうちに僕は大きな勘違いをしていたのかもしれない。
病院で亡くなっていく患者さんたちをいつしか「かわいそう」と思うようになっていた。
確かに今生の別れと考えればそうかもしれないが、何故そう思ったんだろう・・・

自分が母を看取った時。
母に対しても自分に対しても「かわいそう」なんて1mmも思わなかった。
ただ感謝の言葉しか浮かんでこなかった。
(本当にお疲れ様でした)
勿論、僕の場合は心の準備が出来たからそう思えたのかもしれない。

でも、先日上島竜平さんの訃報に際して有吉さんが「いろいろとやってやろうと思ったけど、感謝の言葉しか出てこなかった」という事を言っていた。
本当にその気持ちが良くわかる。
「かわいそう(な事)」だから避けるべき。言葉も慎むべき。
そうやってやがて誰もが迎える死を腫れ物のように扱うことは正しいことなのだろうか?

僕は出来る限り病床の母と沢山の話もしたし、そりゃ後悔を挙げればきりが無いけど、でも「もう心配いらないよ」って言える位には成長したつもり。
だから変な言い方だけど、最期は胸を張って母を送り出せたよ。
(お疲れ様。あとは任せて)って。

だから、少なくともあそこには「かわいそう」は存在しなかったはず。

「命」というものに質量があるとするならば、その重さはどれくらいなんだろうか?
例えば僕の命の重さは、誰が持ってみても同じなんだろうか・・・?
命というものが「限り」に近づき最期の一線の手前まで来たとき、その命は「尊厳」と「倫理」の間を力なく彷徨う。

倫理と言えば聞えは良いが、極端な言い方をすればそれは「医療側のコンプライアンス」でしかなく、本当に患者や家族の意向にどこまで寄り添っているか?と言えば疑問が残る。
どうしても医療従事者が「守る命」と、家族が「守りたいもの」の間には、理屈や法律では解決できない根本的な溝はあるし、たぶんそれはこれからも埋まることは無いんだと思う。

・・お医者さんがやっていることが無駄だとか、そんな事が言いたいわけじゃないです。
むしろ、世界一「酷」な仕事だと思います。
まだ生きている人について「死」を宣告しなければいけないんですから。
勿論、医師としてのあらゆる知識や経験や技術などを駆使した結果として、それでも最終的に「死」を宣告しなければいけないっていうのは、とても苦しいことだと思います。
きっと慣れることなんて無いんじゃないかな・・・。
だからこそ、僕も含め「医療側」の人間は命に対して最期まで誠実でいなければならないんだと強く思う。

今日も戦争や新型コロナの影響で世界中で沢山の人が死んでいる。
ニュースで見聞きするたびに、段々その数に麻痺している自分に気がつく。
別に僕は「運命論者」ではないけど、せめて最期の時くらいは「安心」させてあげたい。
「大丈夫だよ」って言ってあげたい。

・・・だめだぁ、何かうまくまとめられそうにもないや・・・。
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