YAJ

人生フルーツのYAJのネタバレレビュー・内容・結末

人生フルーツ(2016年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

【ポレポレ】

 ドキュメンタリー作品。映画というよりTV特番のような作品だけど、映画館で、ポレポレ東中野という、ちょっと変わった小屋で観れた幸せ、かな。スワヒリ語で「ゆっくり」を意味する「ポレポレ」。まさにそんな人生を描いた佳作。

 公式サイトの予告編をご覧いただければ分かりますが、長年寄り添ったご夫婦が半自給自足の健康的な暮らしを営むさまを静かに追った映像作品。元建築家だった90の御主人(津端修一氏)と、87の奥様(英子さん)、とにかくお二人の元気な様子が羨ましい。90歳で自転車を颯爽と乗りこなす、あの身のこなしは憧れだ。
 作品としても良かったが、この映画を見つけてきて、一緒に観たいと言ってくれたうちの奥さんに感謝。

「家は、暮らしの宝石箱でなくてはいけない。」by ル・コルビジェ

 我が家も宝石箱にしていかなくちゃ。



(ネタバレ含みます)



 ご主人の修一さんが亡くなるという(この作品の中では)ちょっと衝撃的なエピソードが描かれる。どうみても、このまま淡々とご夫婦の日常が描かれていくだけとほっこり鑑賞していたら思わぬ展開だ。ご高齢のお二人故に、いつ何があっても不思議ではない(と二人で言い合う微笑ましいシーンも出てくる)が、カクシャクタルご様子から、そんな場面が挿入されるとは想像だにしていなかった。

「淋しいでしょうけど、待っててくださいね」と顔を撫でながら、告別の日を気丈にこなす英子さん。客席のそこここからすすり泣きが聞こえてくる。みんな、身内を亡くしたかのような気持ちになっているに違いない。

 庭の草むしりの後、昼寝したらそのまま起きてこなかったという大往生だった。本人すら自分が死んだことに気づいてないのではないかという見事な死に様。まさにピンピンコロリ。どこまでも羨ましい。

 さて、その後、残された英子さんの生活が映される。淡々とした日々をどこで終わらせるのだろう?と観ていると、修一さんが生前、伊万里市の精神科クリニックから新しい建物の構想のアドバイスを求められ、デザインをするという、まさに建築家としての仕事を手掛けているエピソードが挿入される。亡くなる僅か2か月前のことだ。
 なんともドラマッチックなんだけど、ここまで季節を追うように二人の日常を撮影し、時系列で編集した流れだったのに、どうしてここで「実は2か月前に…」という形にして、この話を入れたのだろう?とちょっと違和感を持って観ていた。なぜここだけ時を遡るの?素朴な暮らしをありがままに捉えてた作品に妙な映画的手法は要らないのに、と。

 後から伏原健之監督のインタビュー記事を読んで納得した。この作品に関わる前に伏原さんも父親を亡くされていたそうだ。そして父の死後、
 ”父の友人とか、まったく知らない人から「あなたのお父さんってこういう人だったんだよ」と教えられる機会がたくさんあったんです。”
 この感覚、すごく良く分かる。私の父親も家庭ではまったく無口で、職場での様子などは皆目伺い知れなかったもの。その父の死後、十年以上も経ってから、当時の部下の人と会って聞く生前の父親の様子は、改めて故人の人となりを浮き彫りにするのにすごく効果的なんだな。生前、こうした話は不思議と身内には聞こえてこなかったりする。人生のあるあるだ。

 伏原さんは言う、
「それと同じように、修一さんが亡くなったあとにいろんなことがわかってきたんですね。」
 ということで、彼が実際に感じたように、ここは編集したんだな、なるほど。そして幸いなことに、自分たちが撮影していなかった、修一さんが仕事をする様子、つまりクリニックの依頼で、新しい病棟のデザインを描く様子が、クリニックの人が撮影した動画で残っていたという幸運。
 伏原さんはじめこの作品のスタッフ一同が、「そうか、修一さんはそういう人だったんだと。」と改めて驚いた気持ちを、観客として共有できた。そのためのギミックだったんだね。すぐに気づけなくて、ごめんなさい。
 時系列のまま映像が流れていたら、病棟の完成を待たずに旅立つ修一さんの無念さが観る側に生じたかもしれない。それを避ける意図ではなかったとは思うけど、この編集で良かったんだろう。

 エンドロールに被るような最後のシーン。修一さんのデザインを踏襲して完成した伊万里市の病棟を訪ねる英子さんの姿が映し出される。両腕にしっかりと修一さんの遺影を掲げて(感涙)
YAJ

YAJ