晴れない空の降らない雨

人魚の踊りの晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

人魚の踊り(1938年製作の映画)
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 エイゼンシュテインが書いた、正直ちょっと引くくらい熱いディズニー礼賛文。断続的に書かれ続けた諸エッセイのなかで何度か本作も言及されている。曰く――

「このようなものを作るためには、なんと純粋で澄み切った魂が必要とされることだろう! あらゆる範疇、あらゆる因習からの絶対的な自由に到達するためには、〔『人魚の踊り』の〕泡や泡から生まれた子供たちとともにどこまで深く手つかずの自然に飛び込む必要があるのだろうか。子供のようになるためには」

 何という心酔ぶりか。
 さて、本作はシリー・シンフォニーの最後に近い作品である。この頃になるとディズニーの短編はすっかりキャラクターありきが中心で、それはそれで必然的な成り行きだったと思われるが、量産を続けたのもあってネタの枯渇も早かったようである。
 その中にあって本作はシリー・シンフォニーの初期のコンセプトに近く、ストーリーやキャラクターを立てることなく自由奔放な想像力で勝負している。まず、赤ん坊サイズの人魚たちが泡からメタモルフォーゼする。しばらく戯れたあと、海中へ行き、海の生き物たちを別のものに見立てたパレードが始まる。とりわけ、象に変化したタコたちの行進に強く印象づけられたのは、エイゼンシュテインだけではないだろう。
 
 既成のカテゴリーを忘れ、見たままの形態や性質に注目し、変形させる。その自由度の高さにエイゼンシュテインは魅了され、「原形質性」という概念で表現した。「かつて-そして-永久に割り当てられた形式の拒絶、硬直化からの自由、いかなるフォルムにもダイナミックに変容できる能力」とされている。
 本作は全くのナンセンス(無意味)であり、エイゼンシュテインが同エッセイでやはり褒めている『ファンタジア』や、『ダンボ』のピンク・エレファントに親近性がある。ストーリーやキャラクターではなく、純粋なメタモルフォーゼの遊びが前面に出ているからこそ、本作はエイゼンシュタインの心をとらえたのだろう。
 
 しかしエイゼンシュテインは触れていないが、この夢のような時間の最後において、もともと泡に過ぎなかった人魚たちは泡として消えていく。あたかも最初からそれしかなかったかのように、岩と海面と太陽だけが残る。このラストショットの太陽は、やはり目覚めの象徴だろう。所詮は絵空事、当時のディズニースタッフのそんな屈折した心理を感じ取るのはいささか行き過ぎだろうか。