せいか

サーミの血のせいかのネタバレレビュー・内容・結末

サーミの血(2016年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

5.8、円盤で視聴。2018年当時からずっと観たくは思っていたが、今になってやっと観た。むしろなんだかいろいろ派生的にもろもろの時勢と重ねて考えてしまうところもある感じになってしまった。

以下、自分用メモ。

スウェーデンはなんだかいいところみたいなイメージを持たれがちな気がするけれど、実際のところ根深い問題をこの国だって抱えているのだよなあと改めて思った作品だった。
サーミ人といえばアナ雪でもそれらしい存在が取り入れられていたけれど、なんだか暴力的に扱うなあと思ったものだった。
もちろん、この作品を通して一視聴者の立場ながらもおこがましくも日本のもろもろの問題さえも考えてみることは可能ではあるのだろう。

「サーミ人とは、ラップランド地方、いわゆるノルウェー、スウェーデン、フィンランドの北部とロシアのコラ半島でトナカイを飼い暮らし、フィンランド語に近い独自の言語を持つ先住民族。映画の主な舞台となる1930年代、スウェーデンのサーミ人は他の人種より劣った民族として差別された。」(公式ホームページより https://www.uplink.co.jp/sami/)

本作はこのサーミ人の少女を主役にした作品である。監督がサーミ人の血を引く関係にあったり、主役がサーミ人てして現実を生きる人であったりとするようである。


本作の起点と終点は本編からかなり年月を経た後の時間軸で、スウェーデン社会を生きて息子と孫娘もできた主人公が重い腰を上げてサーミ人として生き抜いた妹の葬儀に出席する様子が描かれている。彼女はもはや見慣れぬ顔しかないサーミ人たちを疎遠に感じ、彼らからもまるで異邦人のように敬遠されて眺められている。息子と孫娘は早々と彼らと親しく話すようになるが、彼女はそれにも壁を築くように遠巻きにする。

本編は彼女の少女時代である。サーミ人の子供たちは同和のための特別な学校に寄宿して通い、馴染みのない文化に無理矢理従わされている。主人公はここでは優等生でスウェーデン語なども早々に上手に喋ることができるようになり、先生からも一目置かれる存在だった。
だが彼女を取り巻く環境は残酷で、通学する道中ではいつもサーミ人たちは人々から白眼視されて曝され続け、同じ人間だとは思われていないため、人権を無視した扱いを当然のように受ける(頭の形を測られたり、裸で撮影させられたり)。進学を望もうとも、サーミ人は劣等な人種だからそのような高等なことはできないものであると頭から決めつけられて押し込められる。
ある日、彼女は民族衣装を脱ぎ捨てて洋服を着てパーティーに紛れ込み、そこにいた男の子といい感じになったのをきっかけに街に逐電、その男の子のもとを訪ねたり(そしてそこの親に追い出されたり)、学校に行こうとするも学費を前にどうにもならなくなったりとする。男の子を頼ろうとしたりするが当然うまくはいかず、結局村に帰って母からその資金となる父の形見の銀のベルトを得る代わりに半ば自ら絶縁を突きつけたりもする(その後は描かれることはないが、老婆になっていることからもスウェーデン社会で何とかやってきたのだろう)。

とにかくずっと描かれるのは、主人公があらゆる社会から爪弾きにされている現実である。彼女に牧歌的な平和は許されない。そういう優しい世界は詩の中にしか存在しない。
彼女はサーミ人の社会から社会の都合で切り離され、それをきっかけに他の社会に意識が向いてしまえば最後、サーミ人の社会にはもはや馴染めなくなってしまう。学校でも、同じサーミ人の子供たちに嫌われてしまう。
そして、さてスウェーデン社会に馴染もうとしても、そこら中にコミュニティーは開いていて、きっかけさえあればチャンスはいくらでも転がっているのは分かるのに、サーミの血がとにかく邪魔をする。サーミ人であるというだけであらゆる扉は鼻先で閉ざされるのである。彼女は虚偽に生きるしかないけれど、通学路で嘲笑されてそれを気にしたように「臭い」が嗅ぎつけられるかのように彼らは差別の隙を見出してしまう。彼女にもはや行き場はない。

彼女はスウェーデン社会を捨てて村に帰ることもよしとせず、結局、スウェーデン社会で生きることを選択するのではあるが、彼女を取り巻くのはこれまで同様の疎外感であったことは想像に難くない(例え村に帰ったところでそうだっただろう)。そうした彼女の苦しみの全てはひとえに社会の不寛容や不平等からきているものでしかなく、とにかく本作はやるせなさしかない。生きる上で味わう必要がないはずの苦しみで、人が生み出した残酷でしかないのだ。
数十年後の世界で彼女はひとりスウェーデン社会の詰まったホテルの中で、何も知らないスウェーデン人が、サーミ人たちが現代生活をする中で好んでバイクで移動することの非難もあらわに、自分たちが彼らの社会に踏み込んでいるという意識もなく、彼らがうるさくてこの自然や自分たちの休暇が台無しだと無邪気に語るのを聞いてガラス越しに外を眺めたりもするシーンがあるのだが、あのへんがまさしく象徴的で、人間のいわゆる倫理的な意識なんて少女が老婆になるくらいの時を経たところで大して変化せず、強者として振る舞っている社会は自分たちよりも下に見た社会に対して自分たちの都合しか押し付けないことがこういうところでも表現されてるのだなあと思った。

ラストに老婆の主人公は棺の中に眠る妹とひとりで向き合って許しを乞い、大自然をスウェーデン社会の喪服のままによじ登り(タフ)、故郷である社会(たぶん葬儀関係でもぬけの殻)サーミ人の村の中に立ち入って立ち尽くすのだけれど、ここももう彼女の行く先のなさが私には感じられた。

ホームページではまるでスウェーデン社会の男性に恋した主人公が飛び出していったような書き方をされているけれど、そんな作品ではないよな。もともと彼女は現状に馴染まなくて、どうしようもなくて、やってられなくて、でも何もできなくて、サーミ人としてのアイコン(民族衣装など)を消せば受け入れてもらえるのではないかと思って、でもそんなことはなくて。
実際、私が知識として知るうえでは、サーミ人の少なからずが自分たちの出自を捨ててスウェーデン社会にとけ込むことを選んだ歴史がある(そしてそれで速やかに何事もなくやっていけたわけがなく)。それもまた社会の歪さを垣間見るのだが、本作はそういう歪みに着目したものだと言えるだろう。
この点に関しては監督コメントで「多くのサーミ人が何もかも捨てスウェーデン人になったが、私は彼らが本当の人生を送ることが出来たのだろうかと常々疑問に思っていました。この映画は、故郷を離れた者、留まった者への愛情を少女エレ・マリャ視点から描いた物語です」(ホームページ https://www.uplink.co.jp/sami/)とある通りだと思う。とある通りだと思う。

同時に、民族問題として本作で描かれてきたものは究極的にはそこを取っ払っても、あらゆる形を取って社会にはあるものでもあるなあとも思ったので、本当に息をするのも苦しいなあとも思いもした。もちろんサーミ人の問題が中心にある作品なのですが。
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