ーcoyolyー

愛を歌う花のーcoyolyーのレビュー・感想・評価

愛を歌う花(2016年製作の映画)
3.6
こういう設定のものに触れると私はかつて自分がそこにいたと感じて、即座にその場に引き戻される感覚になるのだけども今回はそうならなかった。私は卒業したのだと感じていた。私はもう卒業していた。いつのまにか卒業していた。私はもう格子窓の向こうに戻らなくても良いのだ。今までの私ならヨニではなくソユルの側から世界を見るんだけど今回はヨニの棘が抜けた、と言われた瞬間から私もヨニの側にいた。それは磁石の極が反転したように、さっきまでいたあちら側には戻れなくてもうこちら側から離れられなくなっていた。日陰者から日の当たる場所に。自分の声が押しとどめられず届く場所に。よく通る場所に。日の当たる場所は私の場所ではないと思っていたのに、そこだけは私の場所ではないと思っていたその場所に。

この変化に対して思い当たる節がないわけではなくて、というか思い当たる節しかなくて、数ヶ月前に親との縁を切ったんですよね。実家という親のいる場所、そこが私の格子窓の向こうの娼館だったんですよね。茫洋と像を結ばず、というか結ばせないようにあえて散らばっていた、散らばせていた欠片が、そうやって形を崩してないと生きられなかったものが、もう過去のものになったからか全て所定の位置に収まってクリアな、明確な像を結べるようになっていた。それだけのことでこんなに意識変革するものなのか、と。
46年ずっと娼館に留め置かれていた私がそこからやっと解放されたんだと気付かせてくれた映画なので作りの甘いベタな韓国メロドラマであるとかそういうのどうでも良くなって爽やかな気分になってますね。私の過去は過去でもう過去でしかなくて、光復節を迎えて全部反転してもう今は光に満ち溢れた場所で生きていけるんだという希望が既に差し込んでいることを知らしめてくれたので、個人史におけるエポックメイキングな作品として『20センチュリーウーマン』と共に記憶に刻まれました。

『20センチュリーウーマン』のエル・ファニングを見て、あ、親と縁を切っていいのか、と気付いたんですよ。(親の方は縁を切られてることに気付いてるかどうか知らんけど)それで親のメアドと電話番号着信拒否設定をしたら、人生のあらゆる場所で起こっていたバグ、あれもあれもあれもあれも親のせいか!電話が極端に苦手なのも機嫌が悪いとすぐ当たり散らして通話中であろうと勝手に電話切られたこととかが深い傷になっていたのか!とか極端に夜眠れなくて明け方まで起きてないと不安になるのは夜中に親が部屋に入ってきて私の体を弄ったり机の引き出しの中を漁ったりしていたことに対する警戒意識か!とかいちいち気づいてQOL爆上げしたんですよね。

いちいちこう書き出すと本当酷いなうちの親。親からの仕打ちのあんなこんなそんなことのせいで、悪目立ちする割に日陰にいないと落ち着かないバランスの悪い人生送ってましたが、もうこれからは何にも怯えず日の当たる大通りを歩けるのか、とこの映画観ながら意識が根底から覆されるように時事刻々と塗り替えられていくのが分かったのでそういうタイミングだったんですね。意識が激変してる最中なんだけど映画の作りが緩いので話についていけたのも良かったでした。

もう分かった死ぬまで生きるからそれ以上のことは何も期待しないでくれ、と自分にも他人にも釘を刺してたんだけども、もっと人生に積極的になっていいのかもしれないね。ソユルの陰の側ではなくこれからはヨニの陽の側で生きることできるのかもしれないね。外から見た私は別に陰キャではなくてむしろ圧倒的に陽の方だったと思うんですがそれが本人の内面とのギャップがあって誰にも伝わらないだろう苦しみがあった。でも結局本来の持ち味を暗転させていたのは親の影響で、その親との縁を断ち切るとその陽光は眩しすぎるものでは無かった。その陽光を眩しがっていたのは私ではなくて親だったので。遮るものが無くなったらそれは気持ちと居心地が良いものだったみたいです。陰キャ切り捨て最高ですね。合わせることなかったのに親が陰キャのせいでしなくていい苦労してきたのかと多少馬鹿馬鹿しくもなりましたね。親と性質が違う子供は苦労するよね。でも自分自身を諦めるくらいなら親を諦めて切り捨てればいい。それは今実感として伝えたいことですね。

あ、あとチマチョゴリが着物の和洋MIXコーデみたいでめちゃくちゃ可愛かったです。着物にドクターマーチンで歩き回るのと同じ文脈で着れそうだからあれもっと流行ればいいと思う。韓国も韓服ブーム来ればいいのに。薬の副作用で体重乱高下してるとき(すなわち激太りに歯止めかからなくて笑ってる今)にチマチョゴリめちゃくちゃ優しそう。
ーcoyolyー

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