せいか

gifted/ギフテッドのせいかのネタバレレビュー・内容・結末

gifted/ギフテッド(2017年製作の映画)
2.0

このレビューはネタバレを含みます

(自分用雑記感想メモ)

吹き替え版で視聴。
トラウマえぐられまくりながら観ることになるとは知る由もなかったのぜ!!!


「ギフテッド」とは、ざっくり言うと、普通ではない並々ならぬ知能や共感能力などを先天的に持った人物のことを指す。特別な才能、天賦の才など。そもそもgiftという言葉にそうした意味が含まれており、神からの贈り物などの意味でも使われるようである。
少なくともアメリカだとそういう平均より遥かに秀でた子供を無理に「平等な教育」の名の下に閉じ込めることはせず、専用の学校を作っていたり、他の手を打ったりとしているらしい。もちろんそれはそれで問題も出てくるので、本作では、そうしたギフテッドの子供(=主人公の姉の娘。以下、娘とだけ書く)を描きながら、そうした点についても触れた上で展開していく流れになっている。

余談だが、ギフテッドについては、デメリットもあれど、一つの枠を作ってそこに無理やり閉じこめないで可能性を伸ばしていく方法を取ろうとする、そうした認識ができている(全体にではないだろうが)というのが、すごいなあと日本人的には思うところであった。
私は決してギフテッドと呼ばれるようななんかすごそうなものではなかったが、頭を飛び抜けようともどうであろうとも「普通」や「平均」にただ頭から閉じ込めるということは少なからず感じてきたことではあるので、隣の芝生は青いという部分もあるのだろうが、単純に羨ましいなという気持ちを抱きながら観ていた次第である。
子供の教育、大人たちの圧力などが上記の設定を通して描かれる作品なので、そこにトラウマを抱えている人にはとにかく観ていて苦しい作品だとは思う。私はそうであった。なので、単純にそういう意味でつらさはすごいので、最終的にハッピーエンドだろうとつつかれるとやばそうな人は観ない方が良い。私にも教えて欲しかったよ……!!!


物語は、すでに自分が同年代の子のようには振る舞えないのに気がついている娘(小学一年生くらい)と父親の言い争いから始まる。父子家庭。朝ご飯一つすら幼い子供をあやすように与えようとするのに娘は辟易としながら、学校なんて行きたくないと訴える。対する父親は普通の学校に普通に通って友達を作って欲しいと考えており、娘の言い分を退ける。嫌々学校に行ってみれば、案の定、彼女にはひどく易しすぎる授業内容で、とてもではないがやっていられない。煽られた先生は暗算でも難しいかけ算を用いた計算問題を問うが、これにまで答えられると、彼女の特別さにピンとくる。その日のうちに主人公に接触するが、そこでかつてナチスが特別な才能を持った者を見分けるのにどういう方法を取っていたかを指摘され(まさしく似たような方法を行っていた)、娘はそんな特別ではないと反論するも、翌日にはルートを用いるような難題をこっそり解かせて逆に看破する(この時点で私より数学の能力はるかにあるなあとかも思うわけである😇)。とはいえ、ナチスのやつを持ち出してくるのはなかなか皮肉が効いているようにも感じた。ちなみにこの先生自体はかなり優しく、特別な子と普通の子への対応がかなり最適化された対応を行い、どちらであっても快適に過ごせるクラスになるように計らってくれてもいる教師である。
   → 娘は特に母親同様に数学分野にかなり特化した才能があるらしく(なので国語などは難しい言葉が出ると意味を尋ねたりする)、難しい本も既に目を通していたりする。
   → 娘が、ドイツがユーロを吸収してももうどうにもならんという旨の発言をしたこともあると言っていたが、たぶん、いわゆる2010年ごろのユーロ危機もしくはそのへんのことを言っているのだろう、多分。何であれ、ユーロの問題点はそれはそうなのだが(それだけの話でもないが)、幼い子供が触れられる経済の話ではないので、そのへんも特異さの表現である。作品世界は放映当時とほぼイコールなのかなと、このへんの発言から思いもした。

実は主人公も多分に普通とは異なる人間であったことも示唆されるのだが、それ以上に、彼の姉妹がそうであったことも判明する。天才数学者として誰も解き明かせなかった数式を解いてしまうかもと期待されていた彼女だったが、若くして自殺を遂げた。人付き合いが苦手で、娘の父親とも一月ももたなかった女性だった。この姉妹の存在ゆえに主人公は娘には普通の道を歩ませようとしているのである。主人公たちの両親は、父は幼いころに死に、母は厳格で、妊娠した娘を冷たく突き放すような人であったという。
   → ところで、主人公の名前がフレッド・アドラーであることからも分かるように、アドラー心理学のアルフレッド・アドラーが連想できるような名付けになっている。アドラー心理学といえば、人生に意味を見出そうとしたり、なんでもかんでも性的なものに結びがちなフロイドに対抗して、人間活動の最大の動機は力への意思であるだのなんだので、優劣についてどうのこうだとか言っている特徴がある。日本でも主に自己啓発本界隈から名を馳せている印象がある人物である。ちなみに私自身はアドラー心理学が嫌いなので、このへんに気付いたところでだいぶ視聴意欲は削がれていた。嫌われる勇気だなー。余談である。何はともあれ、本作を理解する上ではアドラー心理学の思想は多少なりとも関与すると思っておいた方が良いだろう。
ある日、学校長は娘を優秀な子供向きの学校へ編入するように勧めるが(この時の、いかにも、トクベツを意識した驕った態度の演技のうまさはなかなか良い)、主人公は、そういう学校は自分だってもう調べたことがあるが、世界から隔離して暮らすことになるようなそういうトクベツ扱いはいちばんあの子のためにはならないと言う。難しいところである。
    → 少なくとも比較検討した上でそういう選択をしている、できるのはえらいよなあとやはり思うのだけども。
校長が、娘に合った学問レベルの授業はここではできないと言えば、じゃあ娘をまともなレベルに引き下げてくれと主人公が言い返すのも、彼の事情があればこそのセリフであるが、これもまた残酷な対応である。娘本人の意思は無視して大人たちが好き勝手にいろいろを語るのも、その歳や保護者という立場からすれば真っ当ではあるのだけれども、ずいぶん滑稽ですらある。人類に子育ては早すぎたんや……とか思わずぼやいてしまいそうな感もあるが、やはり、難しい普遍的なところがギフテッドの子供を通して描かれてもいるのだろうなあとも思う。

学校長とのやりとりのあとに主人公母が登場するのだが(多分、校長から話を聞いたらしい)、これがまたゴリゴリの教育ママ的な人物で、特別な才能を持った孫を明らかに特別視していやーな感じに接してくるのである。良い本を与えたり、すごくいいMacBookを与えたり……。七年間ずっと孫とは顔も合わせようとしなかったのに、手のひら返しで迫ってきた嫌な女なのである。そんなんやから娘死ぬんやぞとうっかり思ってしまうキャラ造形なのである。
主人公宅のいかにも貧しく不潔な家の様子に険を唱え、猫アレルギーなのでそのペットは嫌い、自分が孫を(そして多分息子も)無視してきたことは指摘されると嫌がり、いかにもドライな人物である。格差の下の方の人とかは無視するタイプの人なんだろうなあということがしみじみ伺える。
頭はいいはずなのに(姉が死ぬまではボストン大で哲学を専門に準教授をしていたくらいすごい)フリーの船の修理士として不安定収入で暮らす主人公のことも心配というよりは頭ごなしに無理解で、その後の二人の掛け合いも聞いていて、あーあーあーという感じである。娘にふさわしい教育をしないなら法廷で争ったって良いと言われれば、彼はこれは亡き姉の意思でもあるのだと突っぱねる。彼らの母親は自分が理想のために子供たちに何をしたかには思い至っていないのだなあ。つらい。この中で母親は姉のことを少し考えの浅い子だったとさえ言ってその意思を否定さえする。自分が否定した先に新たなギフテッドの子供が誕生したことは無視するのである。つらい。姉は今の娘を見たら悲しむわよ、特別な子をこのままにするのは保護者の怠慢だわとさえ言う。観てるこっちがすでに瀕死になる勢いなのである。挙げ句の果てが「あなたはメアリーの可能性を潰してしまってる」。それは自分がやろうとしていることにも返ってくることはまるで思い至らない凡庸で悪質な善意の持ち主(そして周囲の人間も少なからずそう)なのである。つ、つらい……。挙げ句の果てには、特別な才能をある人が閉じた世界で生きることは仕方ない犠牲だと言い、娘は歴史に残れたのに諦めてしまったのが駄目だったのよ。あの子は弱かったの、父親に似てしまったのよとさえ言う。とにかく観てるこっちがトラウマを抉られていくえぐさが続く。自分の理想に適わないものは自分ではなく他人のせいにしてきたのだろうなあ。うぐぐ。
   → 母親は、かつては結婚によってイギリス(ケンブリッジ大学で数学を専門にして研究していた)からアメリカに移り、子供を産んだという。そこで自分の道が一つ断たれてしまったことが彼女にとっての名残となって、自分の子供や孫に矛先が向いているようである。

主人公は数学の世界に籠もろうとする娘を外へと連れ出す(最初は嫌がっていたが、いざ外にでればそれなりに楽しんでいそうな様子)。姉のような環境には置かないという意思が見える。数学の難しい本に触れることだとか、そうした特別を助長させるものを頭ごなしに取り上げたりはしないので、優しさは感じる(し、実際彼も彼なりに逡巡して努力して対応してはいるのである)。少なくとも彼の母親よりはかなり真っ当である。
夕暮れの中で娘の「神はいるのか、イエスは神なのか」などの問いに答えていくが、肯定も否定もせず、信じることと知っていることは違うこと、自分は自分なりの考えは持っているが、それが正しいかは分からないこと、答えを押しつけたくはない、自分で考えろ、でも信じることを恐れるなということを静かに答えていく姿はとても良いし、ここは、彼が何を考えて娘に接しているのかも凝縮されたやり取りでもある。ここで語られているのはかなり適切な距離間であるとは思う。かなり真っ当に父親をやっていると言えるだろう。観てるこっちはそれはそれでグサグサ刺さってくるのだが。

裁判では、主人公が白人の弁護士を雇えないことが指摘されていたり、そのへんのアメリカ事情についても触れられている。
隣の黒人のおばさんの優しさが沁みる。
「心配しなくていい」
「やめてよ! 何を言われたって安心できるわけない。口出す権利もないんだもの。親戚でも後見人でもないのよ。他人なの! ただの隣のオバサンじゃ、誰も私の気持ちなんか気にもとめないわ! ……メアリーを頼めるかって? 毎晩だって構わない」

自分がいつも通り週末に一晩だけ隣人に預かれられている間に父親と担任教師が情事をへたことに気がついても聡い対応をするのがなかなかそれはそれでドキドキする。「気まずーい」と率直に口にするのも本当に大人びている。
対する主人公は、こんなに朝早くに言えに戻ってきたりするのはルールを破っている、おかげで恥をかいたと言う。彼は彼の人生があるのだからその自由の保証を求めるのも確かにそれはそうなのだが、たまたま物を取りに来ただけの娘への理不尽さはすごい。「五分だけでも自由になりたい!」とうっかりそういって彼女の存在を否定してしまえば、何せ相手は聡いのでそれを理解し(でなくても言ってはいけない言葉だが)、たまらず飛び出す。すぐに、おまえは何も悪くない、自分に腹が立っておまえを怒ったんだと言えるのは偉いなあとは思うし、棘になって残らないようになんとか言葉を重ねるのも偉い(残る物は残るが)。パソコンの画面を見ながら譫言のように最初は「別にいいよー」と言っていたのを諫めてきちんと目を見て言わせると、彼女の傷付いた本心が覗くのもよい。でもそういう描写たちもこちらからすればほんとに観ていて胸が痛い。何で観てしまったんだ。

何はともあれ、娘は二日間祖母の家に滞在することになり、その間に彼女に大学に連れて行かれる。そしてそこで教授がわざと誤って記述した問題を解くように言い、彼女はその誤りを正した上に証明してしまう。
    → 最初はその誤りを指摘しなかったのだが(ここで祖母は誤りに気がついていなかったのが分かる)、何故すぐに指摘をしなかったのかと言われると、主人公から大人の誤りは指摘するなと言われていたと答えるくだりは良い。

娘自身は最初から主人公との同居を望み、祖母もいいけど一緒に暮らしたくはないという意志をはっきりと見せているのに、それでも裁判は続くのが虚しい。(自分の価値が分かる前から)最初から可愛がってくれているから好きだと言うのも切ない。裁判を通して娘の父親がいかに娘に無関心だったか(生まれてから会ったこともない)も明らかになるし。
主人公とその母親の確執が、裁判を通してすこーしだけ揺れるのもよい。あなたと敵対したくないの。そうだね、でもいつも傷ついてきたとかのやり取りは好きだなあ。二人とも大人だ。そして絶対に埋まりはしないところにきているところがにじみ出ている。
とはいえ、溝が深まる方が圧倒的で、彼女がいかに子供たちに高圧的で、自分の言うとおりでなければどれだけ厳しく振る舞ったかもひたすらに明かされていく。彼女は息子は挫折させ、娘は自殺に追いやったのだ。そして娘の興味は数学だけだと他のすべてを潰して人並みの娯楽も興味がなかったのだと触れさせず、ティーンエイジャーのころの娘が近所の男の子と恋仲になったことも認めない。二人がバカンスに出掛ければ捜索手続きを取り、相手が誘拐したのだと訴え、彼女がついに相手と連絡を取ることを諦めるまで執拗に相手の家庭を訴え続けさえしたのである(この時も娘は自殺をしようとして病院に運ばれた)。絵に描いたような毒親の一形態なのである。ここでも彼女が繰り返すのは、彼女は特別であること、特別な人間だから特別な悩みだって持つこと、彼女の才能はとても秀でていたこと、これに尽きるのである。私は母と娘の関係を越えた非常な責任を負っていた、天才を安全に育てるために手を尽くしてきた、「世界を変えてしまうような偉大な発見というものは、ラジウムより貴重な頭脳なくしては生み出せないものよ! 文明だって生まれなかったでしょうね」。それに一年後に感謝されたの。自分の過ちに気付いたのよ。「もしあの子が生きてここにいたら、あなたのその根拠のない中傷に反論してるでしょう。輝かしい未来を捨てて死を選んだ理由は、決してママがオモチャを与えなかった~じゃないとね!」何はともあれ、やはりこちらの何らかのポイントがゴリゴリ削れていく。ヒー、ヒー。

裁判を通して、祖母はメアリーに与える精神的影響が取り沙汰され、主人公は養育のために必要な金銭の余裕が取り沙汰される。
主人公に対する弁護士は、主人公がこの地に来たのだって姉の遺言に従ったのでもメアリーのためでもなく個人的な動機によるもので、自分を無視してきた母親への復讐だ、メアリーはただの駒にしてるんだろうというふうに話を進めたりいろいろする。裁判とはそういう一面もあるんだろうけれど、一方に有利にするために相手をあげつらうの、今回みたいなものの場合はほぼセカンドレイプみたいな話よなあ。つらい。自分を歪めてきた母親に捨てられた姉の遺言(とあくまでも弟が言うもの)だって尊重されない(=子供らしく育てること、友達をつくって遊ぶこと、普通に過ごすこと)。娘の意志が幼いという理由で尊重されてそれで話が終わらないように(尊重されるのは12歳から)。

裁判は、相手方の譲渡案を呑むことで終わる。メアリーを里親に出すこと、そこから良い学校に行かせること。主人公の家からも25分程度で近い所なので問題はないだろうということ。
主人公は飼い猫と共に嫌がる彼女を里親宅に置いて過ごすが、後日会いに行っても里親は彼女の意志だといって会わせようとしない。だがある日、飼い猫が保健所に連れて行かれているのを知って飛び込んでいけば、そこではメアリーが離れで祖母とどこかの教授と共に勉強に明け暮れている。したたかなもので、祖母は、里親を利用して自分の意志を尊重し、里親もまた彼女の意志を尊重してアレルギーを持つ彼女のために大事な猫を捨てたのだ。
主人公は自分の貧しさが原因で選んでしまった折衷案を悔い、彼を見るなり怒る娘に真摯に謝る。考えてみれば、作品の最初から、まともに怒ったり感情をぶつけて甘えていたのは主人公にだけだったのだよなあ。捨てられた状態の自分を育ててきてくれたのは彼だけで、わがままにもきちんと向き合ってきたのもやはり彼だけだものね。

主人公は姉から渡されていた論文を母親に突き渡す。彼女は文字通り人生を賭けて取り組まざるを得なかったミレニアム検証問題の一つを解いていたのだ。
「俺がアパートに行くと、ダイアンは赤ん坊を抱えて床に座ってて、俺にこう言ったんだ。“この先、何をすればいいの?”って」
彼が語る間も母親は、嘘にしても酷いわとただ繰り返す。証明が完成していたなんて有り得ないと。ヒー、ヒー!
主人公が娘の養育をやはり自分がすると言っても、論文の話に固執する。私に黙っていたはずがないと。完全に証明できたなら必ず公表してるわ!ヒー、ヒー!!!
だが、死後に公表してくれというのが遺言だったのである。ダイアンの死後っていう意味じゃない。つまり、母親の死後に。これこそ母親への復讐である。
主人公は母親と数学教授の共同発表として世に出せばいいと持ちかける。そうすれば彼女はそれに忙しくなって子育てに集中できなくなる。妄執に囚われた彼女に突きつける天秤がえぐい。因果応報。
「ダイアンはすごく頑固で、母さんにすごく怒ってた。でも、こうなって母さんには良かったのかも。今は母さんを必要としてる。他に適任はいない。やってくれ」
ここまで言われて彼女も自分の行いに気付いたのか、「ダイアンが望んでいるとは思えないわ」という言葉がやっと出てくる。この時に主人公が切り返す、「でも、ダイアンは考えが浅かった」という言葉のナイフが鋭すぎる。証明に携われる適任者は母親であり、いつか娘の将来に関与してくる可能性がある。その時に使える材料となるのが論文であったのだから。

そして車に荷物を積んでにこやかに車に乗る娘たちを、祖母は暗い部屋の窓から眺めて見送る。彼女はこれまでのようなことを繰り返すのではなく、終着の果てにずっと昔にできあがっていた論文を取ったのである。もはや天才を育てる必要がなくなっただけかもしれない。それはこちらには分からない。
家に閉じこもって外を見ているだけの様子に彼女のこれまでが詰まっていて、さんざんトラウマは抉られてきたが、胸は締め付けられる。
博士に電話しながら、娘が書き残した数式のメモを眺め、そこでひたむきに邁進する彼女の言葉についに彼女も涙する。自分が、娘に数学しか、しかも一つの問いに答えを見つける道しか歩ませなかったのだから。

場面は変わり、娘は大学で大学生たちに混ざって講義を受けている。そして車内で父親が持っていたデカルトの方法序説の有名な「我思うゆえに我あり」の話をし、以前の「普通の」学校で自分の友達たちと合流して遊んでエンディングを迎える。彼女にとって最良のハッピーエンドを迎えたと言えるだろう。
我思うの部分をピックアップしていたのは陳腐だが、本題は『方法序説』とデカルトにあるだろう。彼はこの本の中で、自分が数学に没頭していたとき、一般的な原理から出発して、複雑で解きがたい問題にいくつもの答えを与えられただとか、そういう話をしているのだから。この話もそのへんの内容だったので、むしろそこを意図しているものだと思う。デカルトにとって数学は特別なもので、絶対の知だった。一つの問いには絶対的な一つの答えがあるからである(ただ、この主張を思うと、作品に合ってないような気もするが)。なんであれ、数学を特別視した哲学者のデカルトを最後に持ってきたのは特別な意味があるのだろう。



作中、裁判中のことであるが、実の父親が自分に対してどうであったのかを(どうせそのうち知ることになるからと)知らされた娘は当然、意気消沈したシーンがある。だが主人公は産婦人科の手術室の前に連れて行き、子供が産まれた時の人々の様子を見せ、おまえもそうだった。俺はすごく嬉しかったんだと伝えると、彼女も見知らぬ他人にめいっぱいの祝福をぶつけるところが今回、この作品の肝なのかなと思った。ギフトとは特別な才能を指すのではなく、生まれ出でた生命そのものの奇跡にあるのではないかとか。
飼っている猫も娘が昔にゴミ箱から拾ってきたものだというのもそういう意味では多分に意味があるのだろう。

また、本作ではあくまでも姉自身がその口から語る描写は一度もない。本当の彼女がどうであったかは分からない。母親の言うことも一部は的を得ていたのかもしれないし、主人公のそれもそれだけだったのかもしれない。残っているのはそれぞれの頭の中にある記憶と結果であり、これからどう進んでいくか、どうするのが最前となりうるかを考えていくしかないのである。我思うゆえに我ありなんだろう。
せいか

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