あとくされ

動いている庭のあとくされのレビュー・感想・評価

動いている庭(2016年製作の映画)
4.6
ネット上での8/1から8/9までの無料視聴にすべり込む。

ジル・クレマンは初耳。フランスの人。庭師で、植物や昆虫などに詳しい。みずから庭を作っている。そこには庭師としての哲学がある。ずばり、庭が動いているように、あるがままを、肯定すること。

農業改革で役に立たない土地は放棄地として放り出された。たとえばクレマンが庭造りをしている「谷」もそう。農機の進入が困難な土地は役に立たないので、放棄される。そうした土地をこそおもしろがる視線がクレマンにはある。

クレマンがいう「第三風景」とは、見放されたり、役に立つ土地の狭間に発生したりする、いわば荒地。そんな場所にもユニークな生態系(エコシステム)は創出する。そこには宮崎駿が『風の谷のナウシカ』で描いたような異郷が展がる。

むろん、第三風景それ自体は「庭」ではない。やはり手を加えなくてはならない。そこで庭師が加えるべき手は、しかし加算的な手続きなのではない。むしろ引き算、減算の手続きなのだ。

土地は放っておいても生態系はおのずと発生する。飛んできた鳥が落とした種子が芽を出すこともあれば、もともと土中に埋まっていたナニカが芽を息吹くことだってある。これらは庭師が想定していた、あるいは構想していたものなのではない。

クレマン流の庭師の仕事とは、そこにおのずとやってきた動植物およびそれらがもたらす動きを “無視しない” ことだ。人の通り道に花が咲けば、その花がそこに生じたことをリスペクトすることだ。庭の外から持ち込んだ思想でもって「この花は邪魔だから抜いてしまおう」としないことだ。そして、庭に創出したシステム内において、現れた植物を取り除くか否かを判断することなのだ。

道は作るのではなく、おのずと出来るもの。…人の通り道に咲いた花を想って、人の歩く道を変えたクレマンの姿を見ていると、共生とはかくの如きものかとおののかされる。安心ではない。なぜなら存在するもの同士はしばしば助けあいもするが、もともとは食いあうものなのだから。

この〈食いあい〉への配慮は存在論的と言えるだろうし、〈助けあい〉だけに注目することは「助けにならないものへの弾圧」にもなりかねない、特定の価値意識に根差したバイアスありきの認識論と言えるだろう。

そもそも〈助けあい〉しか見えないとしたら、そのまなざしは動きを捉えていないのではないかしら。〈食いあい〉はつねにすでに──ああ、存在論学者のハイデガーの言葉が出てしまった──始まっている。終わりない形において、動きある世界の中で。
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