ケーティー

散歩する侵略者のケーティーのレビュー・感想・評価

散歩する侵略者(2017年製作の映画)
-
宇宙人によって、各々の人間の本性を剥き出しにしていくうちに、いつの間にか愛の意味を露にしていくラストが面白いSF作品。
ただし、深そうで深くはなく、アクションエンターテインメントとコメディがどっちつかずになってしまった印象は拭えなかった。


宇宙人が概念を吸い取るという設定が面白い。主人公・鳴海の夫・新治はある日、記憶喪失のように過去を全て忘れ、宇宙人として生き始める。ここで面白いのは、新治は記憶を忘れたことで、かえって地球のあらゆるものに先入観をもたずに接するようになり、その人間としての本性が剥き出しになるということである。(特に、妻の食事を食べるシーンなどはそれを如実に表す)そして、この面白さを増幅させる設定が、まさしく新治が他人の概念を吸い取るという設定である。新治が他人の概念、例えば、仕事という概念を、ある人から透いとると、新治はその人の考える仕事とは何かという考えを学び自分のものとすることができる。しかし、吸いとられた人間は、仕事という概念を奪われ、かえって、仕事以外の概念しかなくなったとき(言わば仕事をしなければならないという発想などがその人から抜け落ちたとき)、その人は自分が本当にしたいことに向かって動き始める。すなわち、概念を吸い取られた人もまた、各々の本性を明らかにしていくのである。その姿から、宇宙人の新治はまた、人間とは何かを学んでいく。概念を吸い取られた人間や、人間の概念を学ぼうとする宇宙人たち(※本作には新治以外にも宇宙人が現れる)が、先入観を捨て、哲学的なテーマについて考え発言したり、問いかけたり、論じ合う。こうした流れは、いかにも舞台劇っぽい設定で、そこが面白い。ただし、この哲学的なテーマの投げ掛けが、意外と深そうで深くない。どこまでが原作の戯曲の問題で、どこまでが本作の脚本の問題なのかは判別しかねるが、創作側の哲学的なバックボーンの弱さ、勉強不足を感じずにはいられない。何も作中の人物に小難しい用語を出して議論をさせろというわけではない。しかし、例えば、井上ひさしさんなら、どんなに優しい言葉であっても、時にその背景に、何かしらの哲学的なバックボーンを入れ込むことで、人物や作品により深みと広がりを出す。哲学の対立する概念を人物の議論に反映させれば、その会話のシーンに弾みが出る。そういう部分がもっとあってもいい。また、設定は面白いものの、そもそもの登場人物のディテールが弱く、どこか作り物の人物が面白おかしい話を進めていく、言わばアニメ的な映画(※だからこそ、世間的にはウケがいいのかもしれないが)になっていることも個人的には気になる。
作品のラストに、愛とは何かを突きつけるシーンがある。このシーンは、映像的な表現で見せる面白いシーンで展開としてもいい。しかし、どこかこうやれば面白いだろうという発想で作ったのだろうなとも感じ、それ以上のもの、例えば、作者が何としても伝えたいメッセージがないのではないか。もしかしたら、原作ではあった伏線がなくなっているのかもしれないが、ラストでメッセージを伝えるために、それに向かって伏線を張りめぐらしていったり(対比やラストの逆を描く)、そのためのセリフを作っていったりという部分が弱い気がした。(例えば、一番分かりやすいのは、愛するというシーンをラストにもってくるなら、その人が愛していない、もっというと愛し方がわからないでは弱く、愛すことに意味を感じていない・疑問があるということをしっかりと描くほど、愛の意味に気づくシーンがより際立つ。そうした伏線とラストの描き方の方法の選択、描く内容をどうするかをもっと考えることで本作はメッセージをもっと伝えることができるのではないのかと感じるのである)

次に、本作の構成についてだが、冒頭でも触れたように、個人的には疑問を感じた。各々のシーンでは、面白いものがいっぱいある。しかし、全体の構成の方向性として、アクションエンターテインメントとコメディがどっちつかずになったことで、それぞれのよさが相殺されてしまっている感じがした。もちろん、どちらも併存できるケースもある。例えば、あくまでもアクションエンターテインメントを主軸にしつつ、その中でコメディをやりますというテイストなら問題ない。しかし、本作はどちらが主軸かもぼやっとしている印象がしたのである。

まず冒頭、これは非常に魅力的なシーンである。日常の中に潜む恐怖(その中で誰にも気づかれず現れる恐怖)の描写が絶妙で、まさしくタイトルの「散歩する侵略者」を絵で見せきる。しかし、ここで宇宙人が日常の中で人を殺すスリラー的、あるいはアクション的な描写があまりに魅力なので、そのあと、肩透かしをくらう。というのも、この後には宇宙人が概念を透いとり人々の日常を変えるシーンが続き、冒頭のようなシーンがずっとないのである。また、日常を変えるシーンでの、その変化や関連する事件があまりに弱く、抑揚のない描写がずっと続く印象なのである。しかし、鳴海へ仕事を発注した雑誌編集長のシーンあたりでようやく絵が動きだし、面白くなる。ここはシーンそのものとしても面白いし、鳴海を追い込み、新治と行動を共にせざるえなくさせるという全体のドラマの中でも重要な役割を果たすシーンとなっている。個人的には、このシーンをもっと序盤に出して、ドラマを早く始めてもいいのではないかと感じた。このシーンの後は、ストーリーとして面白い。しかし、話が進んでいくと、結局のところ、個人的には冒頭で出てきたようなスリラー的、あるいはアクション的なシーンが面白く、それが出てくると、よしよし楽しいなと思う一方、どこか面白いから後半は入れざるえなかった感も垣間見てしまい同時に本作の製作姿勢に問題はないかと考えさせられもした。こうしたシーンは、他のユーモアシーン(言わば、宇宙人の侵略を描くユーモアシーン・コメディシーン)と整合性がとれていないのである。
ただしラストは、長澤まさみさんの見事な雰囲気もあり、前述した問題はあるものの、ぐいぐいヒューマンドラマで魅せていく。その終盤の展開はやはりよく、時に観客が不思議に思うほど新治と行動を共にしてきた鳴海の愛がぐわっと表れるいいシーンもある。しかし、前述したように、細部には弱さもあり、前のドラマともっと関連させて盛り上げる余地がある。

こうした不安定な構成、物語の立ち上がりの遅さは意図したものなのかもしれないが、個人的にはこの構成が合わなかった。もっと冒頭のテイストを生かして、物語の序盤で新治と鳴海の間にも大きなアクションやスペクタクルシーンを用意し、その後も要所要所にアクションやスペクタクルを起こすハリウッドテイストにする。
あるいは、鳴海の仕事先での事件のように、皮肉を利かせつつユーモアあるコメディシーンの連続でみせる。すなわち、舞台劇風のシュチュエーションコメディのようなかたちでみせていく作品のテイストにしてもよかったのではないかと感じた。(この想定の場合、ここでのシュチュエーションとは主人公夫婦にとっての日常という広い意味でもあり、シーンごとの場所という狭い意味でのシュチュエーションでもあるだろう。つまり、主人公夫婦の住む日常の世界のあらゆる場面で、概念が吸いとられることで何かその場所が変化するというコメディシーンを連続してみせる、つまり、あらゆる場所でのシュチュエーションコメディの連続を見せることが、結果として、主人公夫婦の日常という広い意味でのシュチュエーションを変えてしまうというコメディという構成に全体がなってくることを想定しているからである)

最後に出演者では、特に長澤まさみさん、長谷川博己さん、笹野高史さんがよかったことを追記しておきたい。
長澤まさみさんは必ずしも上手い女優ではないが、華があり、本作はその個性と鳴海の人物像がよく合っていて、いい風情になっている。
また、長谷川博己さん、笹野高史さんは元々舞台出身であり、戯曲が原作で舞台的なセリフ(テイスト、リズム、長さなど)が多い本作において、このセリフをしっかりこなし、役としての存在感も抜群であった。逆に言えば、映像中心の俳優は、本作のセリフを的確に表現する力がなく、改めて今、舞台出身の二人が活躍する意味を知った。