しおまめ

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?のしおまめのレビュー・感想・評価

3.3
原作ドラマを見たあと再度、この作品がどういった意向の下で作られたか確かめに行きました。
原作ドラマのほうのネタバレもありますのでご容赦を。


君の名は。が一大ブームとなり、川村元気氏が更に注目され、この作品もいろんなところで話題になっています。
もとは93年にテレビドラマ、後に劇場版としても公開された45分程度の実写ドラマ。岩井俊二監督作品。

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親の離婚から転校せざる得なくなったナズナは、この地から去ることを嫌い、夏休みの出校日、主人公の典道と友人の祐介の賭け勝負に乗っかり、勝者になった祐介に「二人で花火観に行こうよ」「理由?好きだから」と言い放つ。
しかし前からナズナが好きだった祐介はその突然の告白に怖気づき、待ち合わせを破って典道と共に打ち上げ花火が下から見るのと横から見るのとで形が違うかの友人たちの議論の確証を得る集いに参加することを決めてしまう。
流石にナズナに悪いと思った祐介は、典道が賭けに負けた原因の足のケガを口実に「ナズナがいたら、来れなくなったって言っといて」と伝言を頼み、しかし典道がナズナにそのことを伝えた矢先、転校を嫌い家出を画策するナズナを無理矢理引き戻そうとする母親との取っ組み合いを目撃してしまう。
一際目立つ存在感のナズナを少しは気にしていた典道は、合流してきた祐介たちを見て祐介に殴りかかる。祐介が約束を守っていればこんなことにはならなかった怒りで。
「“もし”、俺(典道)がナズナから母親を引き離してれば・・・」
典道がそう思った瞬間、場面は切り替わり、賭け勝負をする場面まで巻き戻される・・・。
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最初はテレビで、その後劇場版へとなったとき、お客さんの多くが「なぜ時間が巻き戻ったんだ?」という疑問が相次いだという。
元々“if(もしも)”をテーマにしたものであり、時間が巻き戻ったのではなく、“もし、あのとき、ああしていたらこうなっていました”というシミュレーションを主軸にした話であり、
しかし素晴らしいのは、それを説明っぽくせずに自然と馴染ませ、最終的には“どっちにしてもナズナは転校する”という、重く、後味素晴らしいところに着地する物語なっている。
子供たちでは抗えない現実というのを痛感させるような終わり方であり、しかし“if”から組み上げられた物語では、ナズナと典道の、短く、儚い、曖昧な恋模様が起きるという形になっている。


今回のアニメ映画は序盤のうちは非常に丁寧に原作ドラマのほうを準えていて、製作者たちの原作に対するリスペクトを感じさせる。
というのも、アニメ映画版でよく槍玉にあげられる下品な下ネタの数々ですが、実際には原作ドラマ版でも似たように下品な小学生が描かれています(先生の乳揉んでます)。
あまつさえ、あの君の名は。を生み出したプロデューサである川村元気氏であるにも関わらず、女性客が普通に引くような下品な下ネタの数々を原作同様に構いなく入れてくるあたり、よほど原作を崩したくないという考えが窺い知れる。
(実際本人自ら原作は既に完成されていると言っており、大きく手を入れたがらなかったようで)
なんせ93年のドラマですから、昭和の香りがまだ残る時代でもあるため、そういった子役の大胆なデフォルメ具合というのは今よりキツかったんでしょう。それすらも壊したくなかった懐古主義的な思いもあったかもしれません。
ただ45分と1時間超えという尺の違いがあるため、やっぱりそこは踏襲しなくても良かったんじゃないのかなぁ・・・と思ったりもしますが。
また、劇場公開時に起きた時間の巻き戻り原因を問う声を気にした岩井俊二監督自らが、今回のアニメ映画化にあたって「もしも玉」というガラス玉のアイテムをキッカケに時間が巻き戻るという理由を加えています。
このガラス玉が実写版とアニメ映画版とで物語の方向性を大きく変えさせている原因でもあります。

注目すべきはナズナの違いです。
今回のアニメ映画版は実写版と違ってナズナの“アイドル性”というのが強調されています。
賭け勝負の際、実写ではナズナは賭けには参加せず、賭けの行方を見定める審判役としてであり、勝った祐介(“if”の世界では典道)に無理矢理約束と告白をしますが、今回のアニメ版はナズナ自らが賭けに参加し「私が勝ったら言うこと聞いて」と言い放つほど積極的です。
この時点で実写と大分性格が違います。実写はそれほど積極的ではないうえ、より現実的な考えをもち、しかし自身が抱える悩みもありと・・・非常に複雑な心境を抱えた状態なのですが、
アニメ映画版のナズナは基本積極的です。
ここで物語に明確な違いが現れます。実写において、現実と逃避のせめぎ合いの中で、結局は残酷な現実を子供たちが体感し、大人になるという甘酸っぱいものであるのに対し、アニメ映画版のほうはただひたすらに逃避から逃避へと向かっていくのです。
その逃避はもっぱら主人公の典道の願望によるものが大きく、もしも玉を使って「もしあのときナズナを救えていたら」と、後悔からの解決を望み、ナズナと一緒にいる時間を“延長”させます。
”延長”させるだけです。アニメ映画版でも実写版同様に抗えない現実を常にチラつかせており、典道とナズナは常に迫りくる現実から逃れようと、あの手この手で一緒にいる時間を“延長”させます・・・が、もしも玉による度重なるやり直しの果て、典道は徐々に現実を見ないようになっていきます。

「違う、花火はこんな風には見えない」

劇中幾度となく訪れる打ち上げ花火の炸裂時間。
最初、典道はナズナ救出に失敗し、喧嘩状態になってしまった祐介とその他友人たちと共に打ち上げ花火の横からの視点という独自解釈のもとで割り出した灯台を目指し、そこで観た花火は現実である“球”ではなく、平たかった。
これを見た典道は一回目のやり直し後であるこの世界が嘘であることを確信し、もしも玉を再度投げるのです。それはナズナを救えなかった後悔の念も含まれているでしょう。
ただ、この時点で実写版とは違ってシミュレーションでもなんでもない、やり直した世界は分岐でもなんでもない、嘘の世界であるということになります。
その後どんなに「もしも玉」を投げようとも、風力発電の羽は常に逆回転。打ち上げられる花火も全て普通じゃない。
嘘の花火の光景を目にする度に典道は否定し、ナズナと共に普通の打ち上げ花火を見ることを目指そうとするわけです。それはつまり、ナズナと共に過ごしているという時間そのものが現実世界であると確信を持つために。

しかし前述したように現実は避けられないのです。そこは実写版もアニメ映画版も同じで、よりわかりやすくアニメ映画版は迫りくる現実を描いています(ナズナの親や典道の友人たち)。
どうやったってナズナは転校を避けられませんし、典道と共に駆け落ちしたって上手くいくのかどうかわらない。アニメ映画版ではナズナが考える“if”をナズナの母親が再三の離婚と再婚を繰り返し、駆け落ちしやってきたこの街であることと、過去の相手を想いやらない母親(ナズナいわく「ビッチ」)といういきさつで、親と同じことをナズナはやろうとしているという皮肉をして、現実の厳しさというのを感じさせています。
それでも典道とナズナは共に恋し、「もしも玉」で二人の時間を作り続けます。


ここまで読めばわかる通り、アニメ映画版はただひたすらに中学生の願望を為そうと二人が翻弄している逃避行の物語。
そこにナズナのエロスが加わり、このアニメ映画はよりアイドル映画の装いを強めていきます。
特にラストシーンに至っては出席簿を取る中で、ナズナは勿論転校していないのですが、典道もまたいません。
このラストの解釈は様々ですが、仮に典道が現実世界に帰ってきてもナズナと共に駆け落ちしていったのであれば、この映画は逃避行ものであると言えます。
ナズナのアイドル化と、逃避行の物語・・・
実写版とは正反対の物語になってしまったのは何故か考えたとき、序盤に映る典道と祐介がゲームをしているシーンが気になりました。
プレイしているゲームは2016年に同人ソフトとして発売された「キラキラスターナイトDX」。2016年に発売された“ファミコン用ソフト”です。

そもそもこのアニメ映画、時代背景となるものが原作を壊さないようにするためかあまりにも無さすぎで、スマホも出てきません。
ただ唯一、今(2017年)を象徴しているようなものがこのゲームです。
実写版では当時のゲームであるスーファミのマリオ、そしてストⅡでしたが、今回のアニメ映画はハードはプレイステーション(4?ワイヤレスコントローラだった記憶)。しかしソフトはファミコン用。それも同人ソフト。
スーファミよりも古いファミコン用です。実写と現代とのバランスを取るようにしたとしてもおかしいですし、原作準拠ならそのままスーファミ出しても良かったはず・・・。
同じようにナズナが歌う松田聖子の歌「瑠璃色の地球」が、母親がカラオケでよく歌っていたという・・・世代的にも現代に相応しくない選曲で、どうもおかしい。

これらの不思議な点と、ナズナがアイドルのようなキャラクターになっているという点と、物語が逃避行になっている点を考えてみて思ったのが・・・ようはこの映画は原作の典道がやりたかったことを描いた、
つまるところ「キラキラスターナイトDX」が表すように、二次創作的な思いの下で作られたのではないかと思われます。
懐古主義を守りながら、二次創作のように別の道を歩みだす。その宣言がゲームのシーンだと。
川村元気、大根仁、岩井俊二の三人は、いずれもこの作品の熱烈なファンと原作者です。
二人は原作を見て、ナズナの魅力にとりつかれる典道に共感を抱き、それをこの作品に映しこもうとしたのではないかと・・・。ナズナは水商売をして駆け落ちしようと口では言っていましたが、アニメ映画版ではその後の電車の中で、アイドルにでもなろうかなと画策しています。
そして松田聖子の歌を歌い出す。原作の年代ならば別段おかしくない設定ですし、それを今のこの現代で歌わせるというのは、原作でナズナがなってほしかった製作側の願望によるものではないのかと思うのです。
駅での着替えの後のナズナの衣装も原作とは違って、これまた夏空にはステレオタイプとも言うべき白のワンピース。男たちが憧れる清純そうなイメージ。
しかも原作と決定的な枝分かれに繋がる駅でのシーンで、背景が非常にノスタルジックで幻想的。唯一あそこだけ背景が特徴的なのは、そこから先はファンタジーの世界、つまり原作から離れる“if”の点だと思われます。
“もしあのとき、電車に乗っていたら”という原作の“if”をこのアニメ映画でやろうとし、そして描かれたのが逃避行の物語。

アニメ映画「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」は、熱烈なファン(及び原作者)による二次創作である・・・と。

やり直しにやり直しを重ねた典道の願望は、採取的に「もしも玉」の中にいるかのような滅茶苦茶な世界になります。
そこで描かれるナズナのエロティシズム。典道が最後に観たナズナとの究極的な理想の映像は、製作側が心から「そうなってほしかった」という思いで描かれた、
しかしそこまで描くと原作を今以上に破壊してしまうことにもなりかねないので、現実へと引き戻されていく。
花火師による第三者の力によって現実に無理矢理戻されるというのは、製作側の「これ以上はいけない!」という苦悶の叫びなのかもしれません。
そして最後、ナズナは決定的なことを言い放ちます。

「今度はどんな世界で会えるのかね?」

つまりナズナに会いたい典道みたいな人間が現代にいるわけです。原作の熱烈なファンが。今回はアニメという形でしたが、次はもっと別の形でナズナに会える機会があるのかもしれません。
実際、川村元気プロデューサは原作を「時をかける少女」のように、長い間何回も新しい形で送り出されるべき名作品であると語っています。それぐらい心に響く作品であったわけです。
今回のアニメ映画化は、もしかしたらそのキッカケになるのかもしれません。




でも、もし、またアニメ映画としてやるなら、
今作みたいにもろ分かりなCGはやめていただきたい。流石に目につきすぎてヤバいですし、作画も所々おかしい。
加えてアニメーションとしての動きもおかしいので、声優さんが頑張ってもこれじゃあどうやったって違和感しかわかない。
セリフ回しも、いくら原作に忠実にしようとしたって、説得力無ければならない。当時の演技と今の演技とではまた違うわけだし、なにより原作もアニメ映画版もあんな喋り倒すような小学生、中学生いません。
現実との闘いがテーマでもあるわけだし、現実感だすリアルな描写は必要不可欠。原作は実写というビジュアル面での説得力があったからかろうじて良かったけど、アニメだとそうはいかない。作画もアニメーションも不安定だから余計にそう見てしまっている。
あざとい目のアップも、いくら岩井俊二監督発案の「アニメならではの表現」と言ってもくどくやりすぎ。たまに入るギャグっぽい描き方も安直過ぎ。
祐介が不遇に扱われ過ぎ・・・・っていうのは製作側が祐介嫌いなだけなのかも・・・「俺たちのナズナを苦しめやがって!!」。まぁ二次創作だし仕方ないか。

ここまで書きましたが、小説版は未読で、あくまで映画版のみの話です。自分はこの作品をこう見ましたに過ぎません。真実はわかりませんので悪しからず。
しおまめ

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