しゃりあ

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?のしゃりあのレビュー・感想・評価

3.6
あとで書くとか言いつつ書かずに忘れてたので金ローで再見

タイムリープによって得られるIfが、ただの"やり直し"である比較的現実的な並行世界モノから、なずなの「おかしな花火でも良い」を契機にして、無限の選択肢を得るファンタジー世界観へ飛翔する構造が良い

翻って、ラストシーンのノリミチ不在によって、「結局××だったのか、××だったのか」と提示される問いは、突き詰めると、「"次"の打ち上げ花火を『横から見る』か、ふたりは未だに、花火を『下から見続けている』か 」の、現実的世界観に戻るか、幻想的なふたりのセカイを取るかというセカイ系的命題に帰結する


以下個人的な詳説

1回目、灯台で花火を観るシーン
"こんなこと"、つまりなずなが両親にシバかれたり、同級生にデートを目撃されて邪魔されるような、「上手くいかない世界」は、「花火がひらべったい世界なんてあるわけないだろ」という言葉通りに否定される

もしも電車に乗っていたら、から始まる小さな飛翔から、"大きな「もしも」を選択できるかもしれない"という可能性が少しずつ見え始める
しかし、電車での歌唱シーンは、地に足のついた視点での「もしも」の頂点でもある
なずなの願う「駆け落ちが成功したら」「アイドルとして自立できたら」「2人で生活できたら」という想いは、非現実的なMV的演出により、美しくも、反面「夢」でしかない

逃げる選択をした(2人を選んだ)ノリミチは、灯台にて「(花火は)丸いに決まってるだろ!」と言う
この時点では、ノリミチに見えている選択肢は2つだ
花火が平たい世界という否定した世界と、いま選んだと思っている花火が丸い正解の世界である
だが、花火は平くも丸くもない"変な花火"だった
「花火がこんな形なわけないだろ」と戸惑うノリミチに「どっちでもいいよ 変な形でもいい」「2人でいられるならどっちでもいい」と告げるなずなは、二元論でない選択の方法を教え、ノリミチはなずなに世界の(花火の)あるべき形を仮託する

落下中に挿入される歌唱シーンは、先程のものとは意味合いが変わっている
先の「もしもの移動」では、ただ選択肢が無限に選べるようになっただけであり、ある意味で現実的な選択肢しか取れなかった平行世界的な解釈であった
そこから続く「この"おかしな"世界でお前と一緒にいる」というノリミチのセリフにより、地に足のついた選択肢は選ばない意思が明確になる
2回目の歌唱シーンは、数多の「もしも」世界の再定義であり、可能性の拡大を示唆しているシーンだ
ここで「夢」すらも、最も非現実的な世界すらも実現できる「ファンタジー」解釈の世界観へ切り替わり、列車は幻想世界をひた走ることになる

そして、打ち上げられ砕け散るもしも玉、無限の「もしも」の終わりが訪れる

「下から見る」花火にたどり着いた2人は、東京でのキスや、あったかもしれない駆け落ちの記憶を目にした
この辺は解釈が別れると思うが、ノリミチはなずなの元へ、海の中へ向かい、「もしも」ではなく、いま、この世界、"2人の世界"を選択したように思う

そして離れゆくなずなは「次はどの世界かな」と2人の時間の終わりを宣言するわけだが、ここからのノリミチの行動は視聴者に投げ掛けられる

ラスト、不在によって描かれる "××か、××か" という選択肢は、つまるところタイトル通り「横から見るか、下から見るか」ということだ

離別を告げるなずなを、島田は"追いかけたのか"、"追いかけなかったのか"(別れたのか、別れなかったのか)
あるいは、もしも玉の破損によって確定した現実的世界に、2人は"帰ってきたのか"、"帰ってこなかったのか"

そして、次の花火をなずなと『横から見る』ことにしたのか、それとも2人は未だに、花火を『下から見続けている』のか


天気の子のように波状に感情ラインが引かれているわけではないし、ダレのシーンもかなりあるし、やる気あるんだから無いんだか分からん作画のブレから結構評価は低迷してるのも肯ける
ぽよよんろっく先生の2次元オタク的エロチズムと、シャフト的な美術センスが、原作の邦画的なノリの夏のノスタルジーとニアミスし続けたままだし…
個人的には、プールシーンでのなずなのターンの作画がかなり気合が入っていてツボ
普通に"無"ではないし、そこそこ良作だと思う

まぁ岩井俊二は元からキモいのでコンプラとかそういうのは期待する方がアレな気もする… 川村元気が悪いっすワラ