あなぐらむ

真白き富士の嶺のあなぐらむのレビュー・感想・評価

真白き富士の嶺(1963年製作の映画)
3.7
1963年の芸術祭参加作品。
jmdbで見る限りは「その人は遠く」の公開から、わずかひと月での芦川さん出演作となる。御本人はあまり覚えていないという事だが、むべなるかなという感じの吉永小百合主演作の助演であ、る。

レビューなどでは実際に起こったこの逗子のボート転覆事件の事や(歌碑も出てくるが)、太宰治の原案についても気にされている方が多いが、あんまり関係ないというか、材に採っただけ、というのが正解だと思う。今は原作準拠を是とする風潮があるが、そういう事じゃないだろうと。

冒頭から「死」が「人々が家から出て行こうとしている」事で明確に提示される典型的な難病ものの体裁なんだけど、当の吉永小百合は、言ってしまえば自分が病気である事でマウントとって、家族がそれに従属してるような感じで、その無邪気さ故の毒気にみんなやられている様にも見える。そこで一番の貧乏くじをひくのが姉であり、社会進出を済ませたBGである芦川いづみさんであると。いつになく良い奴の小高雄二のフィアンセとも、考えるのは妹の事ばかり。まるで幸せを妨害する為に妹・小百合がいるような状況である。
実際自分も親が病床にあった時はそういう生活になったのでその状況自体は分かるが、みんなあずちゃん大好き過ぎだろ、みたいなね。

幾つかの前ふりをした後、物語は小百合の文通相手、イニシャルのみのM・T探しへと加速するのだが、まぁ大体の人はこれが誰か想像はつくし、事実その通りなんだが、可哀想な姉カップルは、自爆するのである。おい小高雄二、なに余計な知恵つけてんだよ、いい車(三菱コルト1000)も買うんだろ? となるんだけども、これが最後でがっと全貌が見えてくる。

逗子の海で小百合が出会う青年、浜田光夫は出会った瞬間にこの小さい悪魔に魅了され、勝手に罪悪感を持って、海に消えて行く。究極のような殉愛。幾度か言葉を交わしたのみの女性の死を追う後追いの死。
最初に提示された死は、この若者の死でもって上書きされていく。
それは恋もした事がない、このまま死んでいくのだという小百合の無念を、自らの犠牲で補うかのように描かれている。

須藤勝人の脚本は突拍子もない所があって、あぁなるほど「結婚相談」の人なのねともなるが、「潮騒」も書いており、どちらかというとこれは、森永健次郎監督がかなり手を入れているのではないか。完成台本が読みたい所である。全体的に戯曲的で、みなが朗読劇を演じているような台詞のリフレインや呼応があって、独特のリズムを生んでいる。
最高潮となるのは姉と妹の最後の夜、小百合が限りない独白を続けるシーンだ。森永組でモノクロが得意であろう松橋梅夫のカメラは、かなりの暗闇(これは彼女が光を怖れる前段がある)の中で長い台詞を縦横に動きながら掬い取り、ぐいぐいとその「喪われた青春」へとフォーカスしていく。
結婚という幸福を約束された大人の姉にとってはこれは、どのようにしても癒す事が出来ないが故に、自らを罰せざるを得ない告白である。小百合は容赦なく切りつけ、姉を想うさま傷つけ、死んでいく。それでもなお、姉は妹に無償の愛を注ぐ。これは十字架である。あずちゃん教。

森永健次郎の演出は長回しである事が多く、松橋梅夫の撮影も1シーンの中で寄ったり退いたりして落ち着かないのだが、驚くほど流麗なカットがあったりする。前述のクライマックスなどは見事なもんである。
この舞台的な映像の作り方は、ちょっと濱口竜介っぽいのではないかとも思う。そういう風に見ると、わりとしっくり来る。

さて、何度も連呼される「青春」だが、逗子・江の島といった湘南を舞台にした本作が見せるのは、日活映画という青春の傷痕であり、残滓でもあろう。「狂った果実」がそうであるように、青春の傷は死をもって贖われる。あちらが兄弟であったのが、ここでは姉妹の青春の変転として、非常に残酷な在り様が描かれているのではないか。
森永健次郎が撮りたかったのは、難病の前で散る少女の姿ではなく、「青春」そのものの概念だったのではないかと思う。

音楽が日活としては珍しく渡辺宙明さんでビヨーンボヨーンと新東宝臭が凄いのだが、終幕で「げっ!」となる。これほんとにそうだったらすげぇ作劇だわ。