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ユダヤ人だらけのいとJのレビュー・感想・評価

ユダヤ人だらけ(2016年製作の映画)
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 監督のイヴァン・アタルはイスラエル・テルアビブ出身でフランスに国籍をもち、本編でも自己紹介しているようにおおもとはスペインにルーツがあるセファルディ系ユダヤ人。人種的・民俗的には複雑と言えるアイデンティティを持つ彼は、本編中においては「ユダヤ問題」の話しかしない人物としてカウンセリングに通っている。本作はユダヤ人をテーマにしたいくつかの短編をカウンセリングのシーンを挿入してつないでいくオムニバス形式をとっている(ユダヤ版の世にも奇妙な物語とでもいえばわかりやすいだろうか)。先に映画の出来について述べておくと、話は面白いし撮影や音楽などの演出も優れているが、かなり長く感じる。

 映画の冒頭、彼はバーで無自覚な差別主義者に絡まれる。彼は自分を「ユダヤ人だ」と言うと、「イスラエル人か」と言われる。再び「ユダヤ人だ」と言うと、「ヘブライ人だ。ヤコブの子孫だろ」と言われる。そして「ユダヤ教徒か」と言われて、やはり「ユダヤ人だ」とあきれて言い返す。すると相手は「ユダヤ人。恥じることはない、現実だ」と言う。彼は初めから恥じてなどいなかったのに! この冒頭の会話だけでも、ユダヤ人がステレオタイプ化されて語られていることがわかる。

 ユダヤ人のステレオタイプとは、頭がよくお金持ちで世界征服の陰謀を企てており、聖地エルサレムへ帰ることを望み、聖書においてはキリストを殺し、ナチスドイツに迫害された……といったようなものである。これらには確かにユダヤ人を語るうえで重要な事柄も含まれている一方で、明らかな偏見と言えるものもある。本作はそのようなステレオタイプ化されたユダヤ表象を、かなり突拍子もないブラックコメディとして茶化しながら解体していく。

 以下、短編の内容を簡単まとめておく(ネタバレ含む)。

①フランス大統領選の直前、反ユダヤ主義政党の男は亡くなった祖母がユダヤ人であると同時に、自分もユダヤ人であることを知る。男の妻は同じく政治家で党創設者の娘として支持を得ているが、夫がユダヤ人であると知れれば党全体の支持率が下がると考えた男は、妻を病気ということにして政界から引退させ、自分は病気の妻を出しに支持率を上げていく、という話。

②働き口がなく経済的に貧しいユダヤ人の男は、別居している妻にユダヤ人なのに貧しいことを責められる。妻は夫のせいでユダヤ姓を名乗ることを恥じている。男はネットでユダヤ人が世界的に成功している民族であることを知り、貧しい自分と両親がユダヤ人であることを疑う。彼はユダヤ人をやめると両親に宣言し、親子の縁を切られる。そこで同居人とともに薬物の売人の仕事に手をつける。数日後、両親は宝くじで50万ユーロが当たり、男は、妻がそのお金を得てラコステなどのブランド服を買っているところを発見する。そこで両親にユダヤ人に戻ることを宣言するも、父は許してくれない。男は同居人に両親が宝くじに当たり、妻も裕福になったことを話す。同居人はその場では男を慰めるが、その夜男の妻の家を強盗で襲いに行く……。

③ふたりの男がタルムード(ユダヤ教の聖典)の解釈について議論する。これは単純に笑えるコメディ。

④イスラエル諜報特務庁「モサド」は、キリストの殺害がユダヤ人迫害の原因とし、開発したタイムマシンで諜報員のノルベールを2000年前に送ってキリストを赤ちゃんのうちに殺す計画を立てる。2000年前についた諜報員の男は土地の人々にメシアが現れたと勘違いされ、もてはやされる。調子に乗ったノルベールは計画を逸脱し、マリアと恋に落ちる。マリアがヨセフとの間にできていたイエスという名の赤ちゃんをノルベールに託して駆け落ちすることを提案したところで、彼は計画を思い出し、赤ちゃんを置いて現代に戻る。しかしマリアを忘れられない彼はモサドを騙して再び2000年前に降り立つ。しかし降り立つ時間を間違えたのかマリアは老婆になっていた。そのときメシアが戻ってきたことを見たユダの妻はそれをユダに報告し、ユダが彼を真の指導者として祀り上げたため、彼はローマ帝国によって磔にされる。そして現代、教会ではノルベールを主として讃える歌が歌われている……。

⑤赤毛に悩む男は、赤毛協会を立ち上げ、赤毛の日の制定を求めてデモを組織する。すると金髪の人々も金髪の日の制定を求めはじめ、対立が起こり、それに続いてアルビノや四肢切断者、視覚障害者、認知症者もそれぞれその権利を主張し始める。認知症の会で、ある男は自分の電話番号を覚える歌を披露するが、どうしても男が最後に言う番号が電話番号と一致しない。すると男は服を脱いで、自分の左腕に刻まれた番号を読み上げる……。

⑥大統領が会議において、ユダヤ問題を解決するために、全員がユダヤ人になることを提案する。それは会議で名案と受け止められ、国民投票にかけられる。結果68パーセントの国民がそれを支持し、国会前でユダヤの旗が建てられるなかパレードが行われる。しかしユダヤ人がいる限り反ユダヤ主義者も居続けるのであり、その六か月後、パリにミサイルが撃ち込まれる……。

 監督イヴァン・アタルの最後の語りは重要だ。彼はイスラム教徒の男の役を演じることをもちかけられており、その男の境遇はユダヤ人である彼にとっても共感できるものであるが、非難されてユダヤ人としての信用を失うのが怖いと言う。しかし、演じるのがどんな人であれ、それをある男の話として捉えて、演じたいと彼は言う。これは表象の問題における重要な提起と言えるだろう。たとえば、少し前までハリウッドでは日本人が中国人の役を演じるといったことや、その逆もあった。しかし現在では日本人が中国人役を演じることに反感をもつ人もいるだろう。白人が黒人を、また黒人が白人を演じることができないのと同じように。確かに、然るべき役は、然るべき人によってしか演じられないようにも思う。しかし、それではユダヤ人がイスラム教徒を演じることは絶対にかなわなくなってしまい、そのような境界を越えて演じていくことはできないようにも思われる……。このことは代理・表象(representation)の限界を示しているのだろうか? それとも、真摯に望むのであれば、誰がどんな人を演じることも許されるという考え方を採用するほうがいいのだろうか?
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