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私たちはどこに行くの?のotomisanのレビュー・感想・評価

私たちはどこに行くの?(2011年製作の映画)
4.1
 聞けばイスラムでもキリスト教でも、さらにはユダヤ教でも拝む神は同じだそうじゃないか。ところが各時代に神から受け取った言葉の受け止めの違いがあるんだそうで、結果、新しいのは異端とされ、古い奴は言葉足らずと貶される。
 諸民族の言葉をバラバラにしてしまったのはさらに昔の異族の「神」のバカ野郎なんだそうだが、こちら唯一神を名乗るなら統一言語をお仕着せて「聖書」一式下し給うたら良かった。しかし、ヒトがそこからまた読み違えしてすれ違い、読み切れずに学ばず、内省もせずに碌でなし人でなしな暮らしに留まるようなら不和諍いの種はなくならないだろう。そんな風な人間がこの映画にもちらほらしている。

 ではテレビの向こうからレバノンのなんとか村にどんな不和がやって来たのか?その元を誰も知らず、ただ射ち合いで誰かが死んだというばかりで、引き金となった最初の誰かの行状も存念も一向に分からない。あるいは十年一日資料映像を使い回したフェイクニュースで目くらましをかけるのか人心を掻き回そうというのかも知れないが、そんな何者かの底意を誰が知ろう。
 しかし背景がどうあれ、既にこの村の誰もがその抗争の表向きが異教徒との不和の再燃と知っている。知っているから昨日までのかりそめの村の平穏はやがて壊れて、いずれまた誰かが死ぬことになるとも分かっている。

 テレビの向こうの事件にも引き金があったはずだが、きっと、この村の事変と同じようないたずらめいた事が始まりだったんだろう。礼拝所に山羊ニワトリを連れ込んで荒らし、お返しに儀式の聖水に血を混ぜたりと、つまらない事を仕掛けて挑発する。
 そんな小さな悪心がヒトの本性だというなら、これ以上誰かが死ぬのはもうたくさんだと思うのも本心ではないか?この村では、厄介な本性を専ら男が担い、それを和らげ打ち消すのを女が務めとする。

 生きることも、生かして育てる事も何十年もかかるのに殺すも死ぬもアッという間、そして死なれてからの時間は生き残る者の時間の重しになるばかりだ。その重しを恨みとしてまた殺して更に誰かの重しを増やすのか?減った頭数は敵に負けずに補えとしながら次の死のために育てよというのか?男を優性とする世間の男は勝手に腹を立て殺す事で憂さを晴らすがいつもツケを女に回す。
 そこで女はこれ以上死なれて堪るかと平和醸成のあの手この手を繰り出してゆくが、争う男たち、平和を賭けて対抗する女たち、かれらに日本人のような日々の稼ぎや身過ぎ世過ぎの時間があるのだろうか?神に祈る事、神賭けて敵を冒瀆し、敵からの冒瀆を雪ぐ戦いで減った腹をどうやって満たし、家族を養うのだろう?平和醸成の経費も誰が稼いでひねくり出すのだろう?
 また、両教徒が不和なら、男と女も立派に不和じゃないのか?ところがそれらがそのように留まらないのがヒトの妙なところかもしれない。東京ジャーミーで話を聞けば争うのはヒト同士が故で宗教は争いの種の一つに過ぎないそうだ。ただ、同じ宗教を奉じていれば争いは地続きに広まり同朋は結束を促され事は大きくなりやすい。しかし、ポツンとこんな小さな村だから小さな争いの内に全力の平和醸成が効いてまた事態は沈静できる、といえばできないわけじゃない?そして女が女である限りいつでも男のスネを蹴飛ばす覚悟でいられる?

 テレビを止めて、使い古して見え透いた神懸かり、新奇一転、大金叩いた色仕掛けやヤク漬けの力技で悪い本性をねじ伏せて、最後は改宗までして見せて溝を埋めてしまうが、これが笑えるようでちっとも笑えない。そうした女たちの誰かがどちらも同じ神を祀っている事に気付いてるんだろうか?ヤク漬け祭りを呼び掛ける両老師もまた、そうと知りつついまさら過去の行き違いを取り繕えるだろうか?
 いつかまたスマホ経由の不和が虐殺を伝え闘争を呼び掛け出して、そのとき女たちの平和醸成は新しいネタを創造できるだろうか?これが恐らく30年後を生きてる者の不安である。
 いっぽうで例えばイスラエル国内には今180万人、人口の2割を占めるパレスチナ人が1948年以来住んでいて、ルワンダでは紛争から30年を経たいま虐殺事件の被害者、加害者が当時から相変わらず隣り合って暮らしている。こうした実際にある不思議な平衡状態が平和醸成でもたらされる落ち着きとは異なる様相で続いているように思われる。

 平和回復ののち、唯一人死んだナシムの葬列が墓所を前にしてたじろぐ。親が改宗したとしても疾うに死んでいたナシムは両宗いずれか、どこへ向かえばいいのか?気が付けば此度のこの平和醸成での両宗教相互交換?オーバーラップ?それでも片方を立てればもう片方がないがしろになってしまう。この行く方知れず自体がすでに次の不和の火種のひとつのようにも思える。生かす事にかけるこの先何十年の時間はまた不和を養う時間でもあるのだろう。

 と、このように地の果て離れ小島の日本でもこの話題は重くてつらい。しかし、ここレバノンでははるかに多くのものを失って敗れ続けた平和醸成なのだろう。それは実は夫ひとり、息子ひとりの引き留めにさえ至らないのではなかったか?それを承知して、だから負け戦の女たちをその通り描こうとはどうしてもならないのが監督の戦ではないだろうか。
 夢のような奇策や死を覚悟の改宗まで持ち出して、それがあり得ないなら、現実にあり得ないついでにたまには笑って歌って踊っての夢の非現実をこそ愛そうと腹を据えたのではないだろうか。そんな笑って生きられる地上世界を神が謳う事がないなら、神をまたヒトを問い直すきっかけとなりはしないか?
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