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三度目の殺人のumisodachiのネタバレレビュー・内容・結末

三度目の殺人(2017年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

是枝裕和監督最新作。



30年前にも殺人を犯し、現在は強盗殺人の罪で起訴されている三隅。弁護を担当する重盛は、死刑確実と思われる中で無期懲役を勝ち取ろうとする。しかし、二転三転する三隅の供述に翻弄され、重盛の弁護士としての信念も揺らぎ始める。



意図的に重ね合わされる三隅と重盛のイメージ。三隅の娘、被害者の娘、重盛の娘と連なる相似性。面会室の仕切り板を挟んで向かい合う三隅と重盛の横顔は、鏡ごしに自分自身を見つめている1人の男の姿を連想させる。

さらに、十字架と"裁き"というテーマ。炭鉱の町と死んだカナリア/逃げたカナリアという連想性。(炭鉱といえばカナリアだからね!)そして、"器"というキーワード。



ちょっとやりすぎでは?と思うほど、メタファーや象徴的な構図が散りばめられている。三隅や重盛の動作のひとつひとつも、かなり意図的で、【これは解釈を必要とする映画だ】という主張が強い。



手のひらを合わせる、タクシーに乗って窓を開ける、左頬を手で拭う……枚挙に暇がない。



スッキリする映画、わかりやすい映画が多い大作日本映画の中で、一石を投じたのは間違いない。他国の作品ではこういったタイプの映画は少なくないが、シネコンで上映されるような邦画では珍しいだろう。是枝監督の観客に対する思いが窺える。



個人的な感想としては、三隅と重盛の最後の対話はいくらなんでも説明しすぎだと感じた。三隅の姿に重盛の姿が重なり、次第に抜けていく映像的演出や、ラストの重盛のセリフは流石にくどい。もうちょっと観客を信じようよ。



結局のところ、三隅は少女に同情し、救ってあげた男なのか?殺人を何とも思わず、相手を翻弄して楽しむ狂人なのか?その答えは観客に委ねられているわけだが、三隅に相対する重盛の思いや願望が、【重盛にとっての真実】を作り上げていく様が、重盛という人間を通して丁寧に丁寧に描写されていた。



『哭声』の國村準も、キリストにも悪魔にも見える存在として描かれていた。全くアプローチは違うが、三隅も「裁きを与える者」としての神になぞらえて描かれているシーンが目立った(十字架や光の当て方など)。見る者の内面が反映される、つかみどころのない人間。



強盗殺人、怨恨による殺人、正当防衛による殺人、司法による殺人(死刑)、すべて同じ【殺人】には違いない。何が正しく、何が正しくないと誰が決めるのか?

真実とは何か?何のために真実を追い求めるのか?誰かのため?自分のため?



この世に溢れている『理不尽』に耐えるため、もがく人々。都合の良い解釈。正義感の押し付け。異常者と見做すことによる自分との切り離し。『理不尽』を直視しないために講じられる、ありとあらゆる身勝手な方法。そして、それを冷笑しながら見下ろす神のような、悪魔のような三隅。



ある意味で、『三度目の殺人』のすべてを集約しているような雪のシーンは、本作の中でも、最も語り合い甲斐のあるシーンだと思う。誰かと一緒に、あれこれと解釈や意見をぶつけあう。そんな風に楽しむのが、本作にふさわしい鑑賞の仕方かもしれない。



※ちなみに。



『怒り』もそうだったのだが、広瀬すずの扱い方にはモヤモヤが残る。「大人の犠牲になった少女」という型にはまったキャラクターもそうなのだが、なんていうか……搾取の描き方が通り一遍に見えるというか……。なんかちょっと、簡単に使いすぎじゃないですかね?ツールとして使うには、あまりに重く苦しい内容だと思うんだよな。あれ、子供だからさ。「少女」というものに意味を持たせすぎだし、負荷をかけすぎ。しかも、それ自体の問題を描くのではなく、あくまでもストーリーの道具でしかないのがね……。

























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