3110133

A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリーの3110133のレビュー・感想・評価

4.6
存在と領土と襞、存在への恵愛

個人の存在とそれが“なにか(歌・詩)”を残すことの意味とはなにか。
劇中で能弁と語られるように、虚無の前では無意味なのだろうか。
その一つの応答がこの映画で描き出されているように思う。
この映画は人間の存在論と芸術論であろう。

登場人物はCとMという記号で扱われ、夫Cの死もあまりにあっけなく、“死んだ”という記号としてしか描かれない。それは明らかに鑑賞者の感情移入を退ける。
これは特定の男女の私小説などではない。CとMの存在は「かわいそう」などといった共感による使い捨ての対象ではない。

では人間をその死を記号として扱うことが、存在への軽視かというとそうではなく、恣意的な個人性による演出を避けることで、存在そのものを現前化させようとしているのだろう。
かといって観念的に過ぎるかといえばそうでもなく、パイを食べるシーンの執拗なまでの長回しも映像言語として優れている。私たちは彼女の存在を痛感する。

存在は常に存在に侵され続ける危機に曝されている。だからこそ存在は自身の領土を保つために歌(リトルネロ)をうたう。(cf.ドゥルーズ・ガタリ)
つまり歌とは存在による存在への(中動態的な)応答であり、世界内での存在の領土化に不可欠なものである。
ではそれが残されることの意味とはなにか。それはひとつに歌が標として領土に打ち込まれることにあると言えるだろうか。この映画ではそれが「家」に残された「手紙」として描かれている。
だからCはMではなく家にこだわった。家は存在が世界内において安心できる領土であり、そこには存在の歌(リトルネロ)が残されている。

なにか(歌・リトルネロ)を残すこと自体が目的化しているのではなく、結果的に領土(家)に残る。
この“残る”というものも、私たちが信じきっている時間軸で考えるべきではない。
劇中でゴーストとしてのCは時間を不安定に移動する。あるいは同時にいくつものCが存在する。これは時間・空間が襞(cf.ドゥルーズ)のように重なり合っているからだろう。
“未来に向かって残す”のではなく、世界に存在させるだけであり、結果的にそれは残っているのである。
波が幾重に重なり合い、泡立つ海に投瓶するように。

救済の瞬間は襞が重なる瞬間に訪れる。
もし“なにか”が結果的に残されるにしろ、それに意味があるのだとしたら、この瞬間のためだろうか。
その瞬間が襞による訪れなのだとしたら、それは“未来のいつか”(未到の時間)のためではなく、いつでも訪れうる“いま・ここ”である。単線的な時間概念から離れたときに、存在と“なにか”は時間を前にした虚無から逃れることができるだろう。
だから劇中で語られるような“未来への虚無”は意味を持たない。

「未来」や「目的」やあるいは「進歩」といった存在の時間への呪縛と道具化から私たちを逃れさせてくれる。
この映画は存在への愛に包まれている。深く感動した。

リトルネロは何が歌われていてもいいだろう。彼女の存在の歌であれば。
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