ちゅう

羅生門のちゅうのレビュー・感想・評価

羅生門(1950年製作の映画)
4.0
人はどうしようもないものだけど、それでも人には一筋の希望がある。


”わしには… わしの心がわからねえ”

芥川龍之介の小説「藪の中」を原作に、羅生門で雨宿りする三人の描写を加えて制作された映画「羅生門」。
殺人に対する食い違う証言から”真実はわからない”というテーマを抽出した小説に対し、ずっと人間味にフォーカスを当てていて興味深かった。


”人間という奴は自分に都合の悪いことは忘れちまって都合のいいウソを本当だと思ってやんだい”
羅生門で雨宿りしている三人が、食い違う証言について議論をしている時に下人(上田吉二郎)がいうセリフであり、食い違う証言をその人の都合でウソをついたものと解釈したものだ。
そして、残りの二人もそうなんじゃないかという思いに捉えられている。
これがこの映画の軸であり、人は信用することができないものなんじゃないかという疑惑を抱かせられる。
この時点で、小説の”真実はわからない”というテーマを一層深めている。

しかし、この映画はここでは終わらない。
映画の終盤で、杣売り(志村喬)が捨てられた赤ん坊を連れて帰って育てようとするシーンがある。
これまでずっと人は信用できないと描写してきて、さらに杣売りが自分の都合でウソをついていたことも暴露した。
それにもかかわらず、杣売りは赤ん坊を育てるという自分の都合を超えた行為をしようとする。
そこで杣売りが発する”わしには… わしの心がわからねえ”のセリフが、理屈では捉えられないものがそこにあることを伝えている。

それは、ろくでもないものである”人”の持っている”美しい性(さが)”であるように感じた。


”お主のおかげで私は人を信じていくことができそうだ”
人間不信に陥りかけていた旅法師がそう言うと同時に人への疑惑を表していたような土砂降りの雨も上がる。

とても清々しいラストだった。


三船敏郎のワイルドなかっこよさと京マチ子の妖艶さでエンターテイメントとしても非常に良い出来だった。
そして、上田吉二郎の下卑た演技が人のろくでもなさに説得力を与え、志村喬の素朴な演技はそれをひっくり返すのに十分なほどの共感性があった。

黒澤明ははじめてだったのだけど、他の作品も観てみようと思える素晴らしい作品だった。
ちゅう

ちゅう