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羅生門のとらのレビュー・感想・評価

羅生門(1950年製作の映画)
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今回、論文でこの作品を取り扱いました!

本作の分析をまとめたものを少しだけ残したいと思います!先行研究や引用、先行研究を論じた学者名などについては削除して載せるので、色々とわかりにくいと思いますがご了承ください。


映画に登場する証言者の四人(多襄丸、武弘、真砂、杣売り)を検証していく中で、真砂が特別に演出を背負わされてきたことを確認した。そして、ありのまま(より真実に近いもの)を語りたい杣売りと3人の回想を比較した際、多襄丸と武弘は、人物像に大きな変化が確認できたが、真砂のみ変化がなかった、それはなぜか。
 三人の証言で共通するのは、三人の関係性の変化が話の中で変化していくということである。真砂が映像構図的に高い位置に置かれる場合、多襄丸と武弘は一人の女性を奪い合うというライヴァル関係となる。これは、セジウィックの「性愛の三角形」として認められる。刀を交えて交渉を行う中で、真砂は高い位置からから落ちる、落とされる。よって多襄丸と武弘は、友情、共感、許しといった繋がりを獲得し、ホモソーシャルの関係性が補強され、強力なものとなる。このことからも、人物の価値が登場人物の配置と関係性を持っていることは認めざるを得ない。一方、第四話では、真砂が男とは何たるかを語り、立場を逆転させる。真砂が下がってしまった位置(価値)を自ら上げることで「性愛の三角形」を再び形成し、各フラッシュバックでホモソーシャルな関係性を生成した。
 羅生門のシーンを確認すると、本論冒頭で紹介した今成の述べる通り、赤子の登場、下人により引き起こされる杣売りと旅法師の関係の亀裂、そして二人の関係の修復によって、同じ位置に立ち正面から目線を合わせる。杣売りと旅法師もホモソーシャルな関係性となる。本作には二重のホモソーシャルな関係性が隠されていることが分かる。映画のクライマックスで杣売りは、奪った短刀(男性性の象徴)、お守り(母性の象徴)、そして市女笠(女性性)に入った赤子と共に家へと帰る。つまり、映画『羅生門』は、杣売りが(当時としては一般的な)父性を獲得する話なのである。この「杣売りが父性を獲得する」という映画の主題が、雨が止み、光が降り注ぐ演出と重なることで、杣売り一人によって、家父長制の構築が表象され、幕切れとなる。
 映画のラストシーンはあるものを観客に譲渡する。それは、父権である。表象の中でも男性性を剥奪され女性ジェンダー化されていた戦後の男性たちは、杣売りと目線を結び、ホモソーシャルを形成する。杣売りが獲得した父権は三重目のホモソーシャルを結んだ我々に回収され、去勢された子羊とも表現された戦後の男性に父権を齎したのである。そして、戦後の男性の父権を与えた本作は、映画界という男性社会に構造化される。
 真砂に話の軸を戻し、映画『羅生門』を整理する。本作は、戦後の男性たちの父権復活を、杣売りに父権を獲得させ、ホモソーシャルを結んで譲渡することで描く。杣売りが父性を獲得するために、旅法師とホモソーシャルな関係を結ぶ。それは、赤子をファクターとして置き、赤子を交換することで形成される。下人が二人の関係を一度、引き裂いた為である。下人が二人の関係を引き裂いたのは、杣売りが下人に殺人事件の話をするにあたり、短刀を盗んだことを隠したことが原因である。その殺人事件の話は、検非違使庁での証言が映像化、証言者のフラッシュバックで語られるが、二人の証言と杣売りの証言では、多襄丸と武弘がホモソーシャルな関係性を結ぶ。そして、そのホモソーシャルの関係性は真砂の価値、位置の上下運動に依存している。つまり、真砂の存在がなければ、杣売りは父性の獲得を達成することはできず、同時に戦後の男性の父権の回復もなかったのである。真砂は、自分の位置の上下運動、強いては、価値の上下運動のために掛けられた演出によって、各ナラティブの展開、更には本作の主題の鍵を握る役割を担っているのだ。
 男性中心社会がイデオロギー化された映画内世界、そして、女性が排除された映画界で、真砂という主要な登場人物でただ一人の女性は、ホモソーシャルの三重性を支える存在、映画の根底を一人で支える役割を背負った人物だと言える。
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