カラン

羅生門のカランのレビュー・感想・評価

羅生門(1950年製作の映画)
5.0
びっくりするくらい面白かった。内容は言うまでもないだろうから、観るに至った経緯を。


『去年マリエンバートで』というアラン・レネが監督、ロブ・グリエが脚本を担当した作品がある。ロブ・グリエはヌーボーロマンの主導者。Xという男とAという女とMという男の三者の間の、会話ではなく、モノローグで、話の内容はただ一つ「去年、私は君に逢った」、これだけ。この奇怪な告白を巡る映画にかなり感銘を受けたのだが、これが実は黒澤明の『羅生門』にインスパイアされたものだというので、逆輸入的に、観てみた次第。

芸術が逆輸入で評価されるのは、歴史を振り返ればよくあることで、例えばアメリカ人作家のエドガー・アラン・ポーを最初に評価したのはフランス人であり、ボードレールが大いに賞賛したのは有名だ。また江戸川乱歩はアメリカ人の作家よりも早くポーを受容していたのではないだろうか。ところで、この『羅生門』という映画も、日本人よりも海外の評価が先行したらしい。それでだ。その海外には、特に欧米にはマルコポーロの時代からオリエンタリズムというバイアスが強烈にかかっていて、彼らの日本文化の理解というのは、所詮はリュック・ベッソンの映画によくでてくる「おかしな日本人」像と、さして変わらないものが大半なのではないかと私は思っている。しかしまた、この海外の人の評価に、日本人は滅法弱いとくる。ゴダールが評価!とか、ヴィクトル・エリセが評価!とかね。(もちろん、全てが間違っているなどとは言ってない。アレクサンドル・コジェーブの『ヘーゲル読解入門』の注に含まれる日本の分析は見事である。『菊と刀』などその焼き直しに過ぎないだろう。)

そんな逆輸入のプリズムを脱色しきることは、私もまた『マリエンバート』から始めている以上、不可能なわけだが、黒澤明はどうなんだろう?本当にリアルなものなのだろうか?と、わりと冷たい目線で見始めたのであった。懸念は吹き飛んだ。抜群であった・・・

ところで、黒澤映画は少なくともモノクロ時代のものは、私の耳では残念ながら、もごもご喋る日本語が聴き取れないので、角川がリマスターしたものだが、海外のcriterion版ブルーレイで英語字幕を付けて視聴。冒頭とラストで繰り返される「分かんねー、さっぱり分かんねー」が有名だし、原作の芥川龍之介の『藪の中』は文学者間で論争が起こったほどの問題作らしいが・・・日本語が、分かる(笑) ロバート・アルトマンのインタビューも収録されているし、読み応えが十分ありそうなブックレットも付いているので、おすすめしたい。(・・・と、まあ、ごちゃごちゃ偉そうに述べましたが、かんぺきに逆輸入のプリズムの中での視聴になりましたが、内側から食い破ってきた感じです。)


少しだけ内容について。

『去年マリエンバートで』は、線形的でない時間の中で証言のリアリティを剥奪しながら、無時間的な反復によって謎の圧力が高まり、精神に食い込んでくるような感じである。言語の迷宮、つまり真理に永遠に着地しない会話を描くのは同じであるが、『羅生門』とはまた違った方向に走っている。『マリエンバート』がヌーボーロマンやヌーベルバーグらしく抽象化を推し進め、人物から個性をもぎ取り「私は去年あなたに逢った」という言葉だけにリアルの所在を置いた一方で、『羅生門』のそれぞれの人物のリアルな造形は凄まじいものがある。ギラつく欲望、嫉妬、嘘、全てが現実的な根拠を持って人物の中に定着しているのに、つまり、極めて具象的なのに、それにもかかわらず、迷宮入りする!そこが凄い。「分かる」のに「分からない」のだから!

各シークエンスは基本的に3、3、3・・・の安定した閉域で構造化されているが、ある構造に−1か、+1されると、動きだして次の構造に連鎖するのかもしれない。例えば、物盗りと女と侍が3で、侍が刺し殺されて2になったりとか、あるいは藪の陰から実はきこりが見ていて4になったりとか。きこりと旅法師と下衆の男が3で、赤ん坊が闖入すると下衆が退場したりとか。こうやって囲い込むことで、逆に、謎が深まっていき、終わりのなさや解決の永久的な不在を予感させるのかもしれない。完全な方程式で明確な解を出したのに、間違っていると言われている感じだろうか。しかも、『マリエンバート』のようにほとんど時間が静止してしまい、物語形式が全面的に不在と化してしまうことなく、しっかりストーリーが動いていく!


特に感銘を受けたシーン。




『マリエンバート』は美術館をホテルに見立てまさに迷宮を作り出していたが、冒頭のグロテスクなバロック調の天井の長大なショットには、凄いな、と感心したものだが、これは『羅生門』の森の深みから太陽の方を仰ぎ見る、逆光ショットの禍々しさには及ばずか。




「静かだ。どこかで誰かが泣く声が聞こえる。」と侍がうそぶくと、侍の視点で森の繁みから空に向かってカメラが伸びていき、空に届いたところで反転して、地を這いながら、侍の顔にまで伸びて来ると、侍が泣いている。侍は既に死んでおり、自分が死んで涙を流していることに気づいていないということか。怨霊化する合図かもしれない。


京マチ子さん。

欲情と怨念とか弱さを見事に同居させてた。
カラン

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