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羅生門のpotatoのレビュー・感想・評価

羅生門(1950年製作の映画)
3.2
10年ぶりくらいに映画館で鑑賞。ロシアの聴衆は変なところで爆笑していて面白かった
物語の肝は杣売と僧、下人の対話にこそあって、証言パートはお膳立てに過ぎない?と感じた。杣売は当初自分が嘘をついていることにも気づかず(ここで観衆も、語り手が嘘をつくはずがないという前提のもと、さっぱりわからねえ…という疑念を三本の証言とともに共有することとなる。)、己の保身のために嘘を重ねる証言者のふるまいに困惑する。
僧も下人も人間の性質の現れだ。しかし僧だからといって正しい訳でもなく、下人が間違っているわけでもない。僧はきれいな面以外を見ようとせず、人間の浅ましさから目をそらし絶望している。一方で下人の言う「人間は嘘をつく存在である」はまさに正しい。彼が杣売をその言葉のもとに糾弾した瞬間、杣売も雨の中に強引に晒される。雨とは罪であり、僧のみが一度も濡れることがないのも、その頑強なまでの潔白さを表しているのか。
羅生門という哲学的な檻から出ていくためには、杣売は二人と対話し、悩み、短刀を盗んだ自身の本性に向き合わなければならない。証言者たちの語りで描かれたように、社会はすでに欺瞞や保身に満ち溢れており、清廉さが仇となるこの時代に正しく生きる余地はさほど残されていない。ここで下人のように、性悪説を逆手に取り享楽的に生きることもできる。赤子の未来やその母の思いなど何事も美しいものを信じなければ、自分のために決断を下すこともたやすく、犬を羨むこの時代を楽に生き延びることができる。
また僧のように人間の善性だけを見出そうと躍起になることは危険をはらんでいる。語り手として信頼をおいていた杣売のように、よすがとなる人の本性の暴かれた瞬間、彼は信仰の軸をたやすく失い、こんどはすべてを疑い一時的な狂乱に陥ってしまう。
杣売はこの両者と対話することにより、おのれを見つめ自らのあさはかさに自覚的になる必要があった。最初は僧と同じように理由のない善性への信用から出発し、証言者への不信に悩み、おそろしい事件だ…と理解を示せない。それが下人によるトリガーによって、自身も彼らとは変わりないということに目を向けさせられる。こうして自分が何者か知ったうえで、彼は赤子を引き取るという選択を、合理的判断(うちにはすでに子供がたくさんおり、6人も7人も変わらない)のもとに下すことができる。この止揚を経て、僧ではなく、まさに彼のもとに未来の象徴が託され、彼は雨上がりの羅生門をあとにする。

…人は自身の性質に自覚的になることで真に道義的な判断を下すことができるという話かと思ったが、あまりそういった解釈を見かけなかったので、これもまた独善的な見方かもしれない。おもしろかった
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