レインウォッチャー

オン・ザ・ミルキー・ロードのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

4.5
悲劇も喜劇も、祈りだったんだ。

いつ終わるとも知れない戦争が続く山間の国境近く、兵士にミルクを届ける男コスタ。天涯孤独の彼に結婚を迫るミルク屋の華やかな美女ミレナ、そして村に連れられてくる一人の艶やかな「花嫁」(M・ベルッチ)。

E・クストリッツァ監督の集大成的作品で、過去作(『アンダーグラウンド』『白猫・黒猫』『ライフ・イズ・ミラクル』…)に登場したエッセンスが総集編的に詰め込まれている。
動物、恋と結婚、宴と音楽、そして戦争。トンネルやウェディングドレスまで…。主人公コスタを監督自身が演じているのも、そういった趣あってのことだろうか。

しかし冗長な大作にはなっておらず、むしろ一連の中では短めに収まっているところが研ぎ澄まされていると感じるし、変な説教臭さもない。
クストリッツァ作品とは切り離せない「戦争」も、今作ではより抽象度が上がっている(時代や場所を限定していない)ことに気付く。これまで動力源の中心だった「怒り」やその反転としての狂騒を越えた、「哀しみ」あるいは「慈しみ」が前面に出ているように思えるのだ。

物語は大きく前半・後半に分かれる。
前半は、村を舞台にしたコスタ・ミレナ・花嫁のトライアングル的な恋のお祭り。そこからムードを急転させる出来事が起こり、後半は花嫁を追う兵士からの逃避行が繰り広げられる。

あらすじにしてしまえば古典的なお話の中で、クストリッツァ作品の特徴でもあるマジックリアリズム的描写が(特に後半になるにつれ)冴えわたり、ほとんど神話みたい。
メタフォリカルな場面も多く(※1)、色々と読解が捗るけれど、きっとこれはコスタという男が自らの癒しのために思い出を掘り起こし、詩の言葉で編みなおした記録なのだろう。

比喩や魔法は…つまり物語には、喪失を癒したり、当事者でない人々にも出来事を印象深く伝えたり、といった機能がある。クストリッツァ氏はここにきて語り部としての本分に立ち返り、今作を作ったのではないだろうか。(※2)
悲劇も喜劇も決して忘れない、それが残された者の定め。エピローグの場面にはその思いが主人公の「行動」として反映されていて、深く胸を打つ。

劇中で、ある(意外な)人物が哲学者カントの言葉を引用する。「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則」。
これは人の行動を司る普遍的な理性と内在的な道徳の切っても切れない関係性について語ったものだけれど、物語の在り様にも近い。

頭上の星空を見てそこに何か意味を悟るとき、人の行動が変わるかもしれない。今作は、そんな祈りが込められた、笑って、泣けて、バカみたいな…そしてだからこそ心に刻まれて消えない物語なのだ。

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クストリッツァとポール・マッカートニーってちょっと顔が似てる気がする…と思っていたのだけれど、今作を観てその理由がわかった。どっちも「おばあちゃんぽい」のだ。

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※1:特に印象に残った2つ。

・狂った大時計
 ミレナの家にある大時計は常に狂っていて、直そうとすると歯車に咬まれてケガをする。これはこの物語が現世の時間枠にとらわれることを拒否している様を示すようでもあるし、過去の悲劇にとらわれて前に進むことから目を背けているコスタや花嫁にも結びつく。
 ところが、中盤の悲劇で時計は壊されてしまう。時間は現実に引き戻され、同時に2人もまた、強制的に状況を変えることを余儀なくされるのだ。

・ミルキーロード
 コスタがミルクを運ぶ道中、缶に流れ弾が当たって中身が零れ出る。乳は血または精液、いずれにしても生命の象徴。それで大蛇を餌付けするとは、つまり悪魔と契約したようなものか。
 しかし、放任主義の神よりも、失楽園の頃から隣人である悪魔のほうがよっぽど役立つこともある。現に蛇はコスタを助けてくれるのだから。

※2:「花嫁」に個人名がないことも象徴的だと思う。時に歴史・神話上の英雄的人物が、実は不特定多数による功績の集合体だったりするように、この「花嫁」も複数の意味を重ねることができるだろう。女性そのものかもしれないし、あるいは国の資源など。