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ウーナ 13歳の欲動のharunomaのレビュー・感想・評価

ウーナ 13歳の欲動(2016年製作の映画)
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私の名を呼ぶな『ウーナ』  
ルーニー・マーラについて


“I hate the life I've had”
人生を失った。残っているのは名前だけ。たかだが20代後半の女性に、15年ぶりに再会した女にこんなことを言わせる関係とは一体何だろうか。私たちが消え去り、置き忘れ、しかしただ一人受苦のようにして生き続けた者がこの世界にいたとしたら、それは今生きている者の中では映画女優としてのルーニー・マーラだけがあらがえるのだと、誰もがいつも暗闇に身を隠す現代映画の上映にさいして、ファーストネームにあのパトリシア(Patricia Rooney Mara)という名前を持つ彼女のフィルモグラフィーがはじまる『ソーシャル・ネットワーク』から5-6年の年月しか経っていないにも関わらず、ついにはその少女時代の回想までもが明示される映画が公開された。『ウーナ』 瞳が見据えたように、彼女自身の映画史の歴史をともなうかのような台詞が言いわたされる-トラウマ的記憶からその感情を爆発させるルーニー・マーラの最上の舞台としてこの映画は見る者を離さないだろう。例えば、原節子やモーリン・オハラの一本の映画の中で、彼女たちの回想として現れる少女時代の別の子役がまったく想像しえないということと同じ意味において、どの世代にあってもルーニー・マーラと同じ役名の代役として別な俳優を想像することは、まだ誰にもできない。デヴィッド・フィンチャーやデヴィッド・ロウリー、あるいはトッド・ヘインズの映画において、裏切りや感情を破壊されてもなおただ一人この世界に立ち、対峙する相手を強烈に見据え、透明に白濁しつつ輝く真珠のように透き通る大きな瞳と開いた唇は、初期キリスト教以来誰も見たことはない。華奢な身体をそのままに、幼い娘のように微笑みを浮かべ、あるいは母のような暖かさをもって相手を抱きしめ、彼らの彼女たちの小さな愛を祝福してきた低体温かつ情熱的な少女であるルーニー・マーラは、35mmであろうとデジタルシネマであろうとその姿と身振りを映画のキャメラに焼き付けてきた。回想の映画『ウーナ』をスクリーンで観るにあたって、イギリスで作られた一般的には名の知れぬ舞台演出家の処女作であるこの映画の、唯一最大の焦点は、同じウーナ役を演じる俳優がルーニー・マーラ以外にもう一人いるという問題に見る者はどう向き合うか、あるいは映画自体がどう向き合ったか以外にはほんとんどないと言っていいだろう。

領域外の娘

 「Blackbird」という戯曲の原作の映画化である本作『ウーナ』は語りえぬ二人の過去についての二人芝居としてある。かつて13歳のウーナと関係を持ったレイという今は50代の運送会社の社員であるらしい男のオフィスである場所に28歳となったウーナが訪ねてくるところから物語ははじまる。原作の戯曲は基本的にウーナとレイの二人芝居であり、回想の形式は13歳のウーナの幽霊が登場する形となるが、あくまでも舞台では直接には少女は表現されない。一方、映画本編における回想やフラッシュバックは、現在のウーナとレイの対話に幾度も挿入され、その総時間は25分、85分の映画本編中でおおよそ1/3にあたる。時代物や叙事的な映画とは異なり15年前の男女のある一点(3か月)の過去と、語り合っている現在の二人の物語であることから、このような長さはかなりのものだろう。ここでの回想は『メッセージ』の、過去としての未来というフラッシュバックにあったような柔らかい懐かし映像の目録などではない。『メッセージ』のような鍵を握る主人公の未来の自分の娘が、ほとんど妄想の娘、死にゆく役割の娘、その記号としてしか存在しなかった、『セインツ』のカメラマン、ブラッドフォード・ヤングを連れてきたにも関わらず滑りまくるという恥ずべき事態と比べても、『ウーナ』には映像的な回想のルック(アンバー系に寄せるなり、望遠レンズを多用するような)はなく、あくまでも現在の映像と差はなく、並列されていくあり方を取っている(そもそもこの長さから言って回想自体が独立して存在しなければ映画としては成立しない)。実際、ファーストカットは13歳のウーナが映る物語上は過去の時間から入っていく。自宅の家の前の大きな樹の下のベンチに膝を立てうずくまって座っている少女ウーナを捉えてトラックアップをするロングショットが素晴らしい。本作の回想の時間の「風」のあり方は目を見張るが、ここでも微風が木の葉とミディアム・ショットに切りかわったウーナの茶色い髪を揺らす。ウェーブがかった長髪にも関わらず、白いひたいが露わになる顔を斜めから捉えたカメラは、茶色のベンチと茶色の木々がウーナの茶色い髪と照応しあい、そこにひたいが眼差しの方向を指し示すかのような様を捉える。ひたいの下の、遠くを見る眼差しはアンニュイであり、郊外の住宅街の誰もいない陽光の中、あっけなく超然的に大きな木の下のベンチに座っているこの少女のあり様はどこか不穏である。隣家への視点ショットから、自ら歩いてその家の裏庭へ向かうのだが、ファーストショットから孤児のようにそこに座っていることは後々重要になっていくだろう。裏庭へ向かうバックショットの追っかけから、誰かの前に立つウーナのショットが続くが、正対したその顔の口を開いた微笑みはすでに不敵であり、あられもない姿であり、ルーニー・マーラにまったく似ていないこの少女の具合の悪そうな眠たそうな倦怠感の目は別の何かである。「ロリータ」が所詮はというか案の定、人の名前であったごとく、ここでこの13歳のウーナ役の少女をルーニー・マーラの領域外の妹と呼べばやはり別な罠に陥るのだから、ここではルーニー・マーラの少女時代を想像しえないという先ほどの意味も込めて「領域外の娘」として呼ぶことにしておこう(呼ばれぬ「名」に関しては後述する)。領域外の娘はそれにしても、ものの数カットで既にその超然としつつアンニュイな魅惑を持ち、まさにある種のロリータと言うふさわしいかも知れないが、その顔は存在論的にルーニーと闘える余地すら示している。

 わたしたちの記憶の最良の部分は、わたしたちの外、すなわち雨を呼ぶ風
 や、部屋にこもった匂いや、燃えだした薪の最初の匂いの中にある(1)

 大気の変化は人間の内面に別な変化を惹き起こし、忘れ去られていた様々な
 自我を呼び覚まし、習慣の眠りを覚まし、しかじかの思い出や苦しみに再び
 力を与える(2)

ガラスと回想 VS さまよい歩く亡霊の風

 一体、人は、幼年期のトラウマ的出来事のその当の相手と15年ぶりに再会するにあたりどのような感情と時間を持ち合わせるべきなのだろうか。舞台としての劇が始まる前に、すでに1度目のフラッシュバックが入る(3)。ウーナは、レイがいる倉庫のようなオフィスへ入っていく前に、駐車場の自分の車から降りる。彼女は駐車場のアスファルトを横切り、建物脇の長い外通路を無表情にも颯爽と歩いていく。ルーニー・マーラが女優として稀有なのは、その低体温な表情でもって、街中を早歩きで進む全身の姿と運動が、説話上の演技を超えて、画面に生気のリズムを刻むところにもある。ここでも、ステディカムでフォローするカメラは、ある種の舞台へと向かうこの女優の歩き向かう姿をミディアムショットでただただ発見するばかりだ。続いて建物脇の長い外通路を進むウーナのバックショットとそのドンデンを、フルショット、ニーショットからバストアップまでサイズを変えて繰り返しリズムを作りながら、夕方の不穏な音響と共に、彼女の歩く姿と感情を、後ろ-正面と見つめていく。不意に吐き気とともにウーナに喚起されるフラッシュバックは、海辺の観覧車に乗っているかつてのレイとウーナであり、ブルーモーメントの藍色の時間帯に昇降していく観覧車の中、レイは擬音語を風に模して両手を交差する手の身振りでふざけている。フラッシュバック後、軽く嘔吐をし身を立て直すウーナの背後から、壁に反射した夕日の光が、フレア、ゴーストとして一瞬カメラに現れる。ウーナはまた歩いて行くが、この時間がすでに夕暮れであり、これから閉ざされた室内での夜が待っていることは興味深い。運送会社なのか、天井までかなり大きな空間の中、工業用の棚に多くの荷物があり、白を基調とした現代的なオフィス倉庫のような会社である。15年ぶりのウーナとレイの再会は、やはり無言のままに二人が見つめ合う姿を切り返していくことになるが、映画的にはあまりよくないショット構成であったのは残念だ。(二人の距離の提示と何よりルーニー・マーラのフルショットを挟み入れるタイミングを間違っている。彼女のフルショットを中心に添えてこのシーンのデクパージュをするべきだった)ともかく、ここからこのオフィス倉庫でのウーナとレイの会話は始まる。ウーナが通されるのは、休憩室兼ロッカー室のガラス張りの空間である。両者にとってトラウマ的出来事となる15年前の記憶を話し合うにあたっても、自分の会社であることもそうだがレイにとっても、このガラス張りの空間は不都合すぎる。レイは「外へ出よう」とドアを開けるが、ウーナから「レイ」と名前を二度強く呼ばれ、ドアを閉めざるをえない。ウーナはどうやら、あくまでもこのガラス張りの部屋を離れたくないようだ。それは密室でありつつも透明であるために人目にさらされる状況によって、レイを苦しめるという登場人物の思惑ではなく、戯曲の舞台装置としてあることと、ウーナにとっては、ガラスや窓というモチーフから回想へ向けられる場所として、映画が機能するためだ。対話の中、何度も挟まれる引き画のショットなどにおいてカメラはガラス越しにウーナを捉える。直接的にウーナが15年前を回想しそれを見るという繋ぎだけでなく、映画は全編を通して随所にルーニー・マーラをガラス越しで捉えていく。それはこのガラス張りの部屋だけではなく、会社の会合の部屋にいるレイが廊下にいるウーナをガラス越しに見る瞬間、あるいは作業場を通って行くウーナを分厚い透明なカーテン越しで捉える序盤のショットや、受付の部屋の横長のガラス窓、ロッカー室の奥のドアに配置された正方形の窓のガラス越しに苦悩するウーナの姿を見つめていくように。

 名前を変え、過去を隠し家庭を持ち、今は健全に生きているらしいレイの状況から始まり、レイが逮捕された事件後の二人についてまで、対話をする間に、複雑な編集によって幾度も15年前の回想や短いフラッシュバックが挟まれていく。回想は映画全体を通じて、隣人としての二人の出会いから、関係を持ち始めたこと、ドーバーへの駆け落ちの最後の日、そしてレイの逮捕とウーナの保護、裁判、裁判後の顛末まで語られ映像によって示されていく。最終的には、二人が離れ離れになった、そのドーバーへの駆け落ちの最後の日の真実へと向かっていく。ウーナがレイに会いに来た理由はたまたま職場の写真に写っているレイを見つけたからだと言う(「なぜ来たんだ」というレイの問いに「会いたくて」とウーナはただ答えている)が、自分の人生を破壊した男への責め苦以外にあるのは、レイがペドファイルであったかどうかという問いである。すでに15年が経過し、一応は法的社会的制裁を味わったらしいこの男を前にしてもはや解決不可能な問いである。ペドフィリアだから少女の私を愛したのか、それとも私が私だから愛したのかという愛の証明への問いには違いない。回想を始める中、終始そのペドファイルとしての徴候があるかないかの問いを受けることになる触法という汚名を持ったこの中年男のレイは、感情をあらげつつも全ての質問に真面目に答えなければならない。レイ役のベン・メンデルソーンの顔は、笑うことのできない笑えない真面目な男として、キッと口元を閉じ、すべてに受け身で応えるのだが、回想時の短パンの服装や怪しい振る舞い、現在の有り様も含めて映画内では常に疑わしい人物であり、戸惑いの顔を浮かべる彼は、今回のルーニー・マーラの相手役としては物語上でも的確である。

 二人の見つめ合うツーショットから、回想の草原の風音が入り、曇天の中で強い風に揺れる草が映される。背の高い草原の中の休憩所のベンチに、座って見つめ合うレイと領域外の娘がいる。そこはドーバーであることが会話で示されるのだが、風の強い不穏な気候であることは重要であり、その日が二人にとって最後の日であるかは定かではないが、彼らが海辺の宿に泊まったあの日の夜も、やはり嵐の前のように、生暖かく寒い雲が空を覆う気候の中にいる。ガラス越しの回想が複雑に編集されていく中で、最初のシーケンスが終わり、レイは会社の終業後の会合へ一人向かう。残されたウーナは、あの日の日暮れのグルーミーな海や泊まった部屋を思い出すのだが、不意に回想内部のフラッシュフォーワードとして、たそがれ時の藍色の時間帯に宿の窓辺に一人立っている領域外の娘が現れる。

h 【TC 00:25:36:20】
i 【TC 00:26:01:14】
j 【TC 00:43:13:06】
k 【TC 00:43:26:16】
l 【TC 00:43:23:14】
m 【TC 00:25:40:12】

カメラがトラックバックをする領域外の娘のカット(i)は、シーケンスの3番目にあたる、最後の日を回想する手前で反復される。そのもう一つの別な回想では、カメラは、領域外の娘にトラックアップで寄っていくことになる(j,k,l)。ウーナは、ガラス越しではないが、自動販売機の黒いガラスの前に立ち、反射するガラスを見つめている(h)→ ひたいをガラスにつけて回想が始まる(m)。そこからさらに時間をまたいで反復された回想内で、窓越しに立っている領域外の娘が一瞬、その鼻をガラスに押しつける(l)。ひたいと鼻という違いはあるし、それは遊びの一種なのかもしれない(こぶたのようである)が、不安定な気候の中、窓辺に取り残されたように遠くを見つめる少女と、説話論的には別な時間に回想していたウーナが、ガラスに顔の一部をつけるという身振りにおいて呼応する形となる。そしてガラスや窓越しに映るということは、透明性や反射性という特性だけではなく、そのまま密室の状態や囚われの身としてあるとも言える。物だけでなく、人の声や音、そして回想の風もまた通過することができない固体。そのようなガラスは冒頭と中盤で回想されるレイの裁判の光景の中にも現れる。レイの被告人席のガラスがそれであり、ガラスに取り囲まれ、なおかつ証言をするウーナは別室のカメラで中継されるモニターの中にいる。ガラスとモニターによる2重の断絶が二人の間にある。
 あるいは2番目のシーケンスにあたる、レイが、終業後の会合の途中で、部屋の外にウーナを見つけ、彼女を追いかけつつその会合から逃げ去る場面。会合の部屋の廊下に面した壁は、またガラス張りとなっている。会合は、会社の上役の思惑を無視し、レイが、リストラをされる社員の名前を呼びあげてしまう混乱した状況になる。それは彼が領域外の娘をフラッシュバックによって思い出し、血迷ったためでもあるが、その後に、彼が会合から逃げつつウーナを追いかけるのはあくまでも、部屋のガラス越しに、ウーナを不意に見てしまったためでもあると言える。これ以降、終業後の薄暗いオフィス倉庫の中をレイの上司や同僚に追われながら、ウーナとレイは二人で逃げ隠れつつ、さらに過去へと遡行することになる。荷物置き場の部屋や白いトイレでの会話が続いていくが、この逃げ回るような逃避行は、15年前の最後の日であるドーバーでの駆け落ちを追体験するがごとく、明かりの消された廃墟のような倉庫を、白い廊下を、さまよい歩く二人の姿は、黄泉の国にいるかのようである。あるいはまた舞台の見立てとして、最初のガラス張りの部屋から各部屋へと廃屋の舞台へと転換されていく。

 確かにあのような海の見えない港町の宿のベッドに一人座り、オレンジ色のナトリウム灯が寒々と闇を照らす田舎町で、誰かを探しさまよい歩き、相手に聞こえてるとも見えてるとも分からぬ証言台でその名を語りかけた記憶が私たちにはあったかも知れない。二人が再開し劇が目の前に現れるよりも昔も今も一人でいる時間に映画はより鮮明に記憶を刻印するのかも知れない。ドーバーでの駆け落ちの夕方、宿での初めてのセックスの後、外へ出て行ったレイ。夜になり帰って来ないレイを心配した少女は彼を探し行くが、すれ違いになり見つからない。レイは混乱し、自ら警察に連絡をして逮捕される。レイはあの日、逃げたわけではないと現在のウーナに言う。ウーナはしかし、どちらにしろ置き去りにされたのだと反論する。風と共に回想される夜の港町でレイを探し回るその13歳の姿は、やはり恋人を探す姿ではなく、迷子になった子どもが親を探す姿でしかない。歩きながら咳を切って「レイ」「レイ、どこなの」と叫び、顔を両手で覆うこの少女はやはり少女でしかない。男女の愛などなく、非対称でしかない子ども。少女だったから私を愛したのかという問いが、オフィス倉庫での最後のシーン、裸のまま抱き合う今のウーナからレイへと発せられる。小さな灯り一つの暗闇の休憩室で、二人して感情を爆発させ、机の上のカップや食べ物、ゴミ箱のゴミを床にぶちまき、散乱させる。ウーナは一人、その廃屋と化した部屋のさらに奥へと移動する。ロッカーの暗がりの隅でレイを待つウーナは、その黒い衣装も相まって亡霊のようだ。しかし二人はついに体を共にすることはない。「君とは無理だ」「どうして? もう子どもじゃないから?」レイは無言のままフレームアウトし、立ち去る。ウーナは泣きながら顔を覆い、せめてもの抵抗のように、その肌色の肌の背中を向ける。背の5つの星座に、触れることも見つけることもない。

私の名を呼ぶな

 「名」というものが、われわれに現実の場所を示してくれると同時に、われわれがその名のなかに流しこんだ知りえぬもののイメージをも想起させてくれる年齢、そのせいで現実の場所と知りえぬものとを同一視したわれわれが、その都市には含まれていないのに、都市名からもはや追い出せなくなった魂を探し求めてその都市に出かける仕儀となる、そんな年齢では、名が個性を与えるのは寓意画でよく見られるように町や河だけではない。名がさまざまに異なる色彩で飾り立てたり不思議なもので満たしたりするのは、たんに物質界ばかりではなく、社会の領域も同様である。それゆえ、どんな森にもそこの精霊が、どんな水辺にもそこの神が宿るように、どんな城館にも、有名などんな館や大邸宅にも、貴婦人ないし妖精が存在するものだ。ときに、名の奥に隠れている妖精は、それに糧を与えるわれわれの想像力の成長にしたがって変容する。そんなわけで私のうちに存在するゲルマント夫人が浸されていた雰囲気は、何年ものあいだ、幻灯のガラス原板や教会のステンドグラスの反映にすぎなかったが、そんな色彩が消失しはじめたのは、まるでべつの夢想によって、その雰囲気が急流の泡立つしぶきに浸されたときである。
 しかしながら妖精というものは、その名に対応する現実の人物にわれわれが近づいたとたんに生気を失ってしまう。というのもそのとき、名は現実の人物を反映しはじめるが、当人にはなんら妖精めいたところが含まれていないからである。われわれがその人物から離れると妖精が息を吹きかえすこともありうるが、われわれがその人物のそばにとどまるかぎり、妖精は決定的に死に絶え、それとともに名も死んでしまう(4)。

 私たちが愛するのは『亡霊』にほかならない(5)

 ところで少女は名前を呼ばれない。回想の中、13歳の少女ウーナは一度としてレイからその名を呼ばれていない。一度だけ、ガラス張りの部屋の中で、過去と現在のブリッジとして機能するフラッシュバックがある。ウーナの家の庭でバーベキューをする風景の中、デッキチェアに横になっている少女ウーナの名をレイは呼ぶのだが、オフで入るその音声は現在のレイの声である。音声が回想と現在のブリッジとしてあり、少女ウーナの顔もそれに応答しているように見えるが、厳密に言えばやはりその声は、物語上でも15年前に発せられた音ではないのだ。そして現在のレイがウーナに呼びかけたその声も現在の映像に先立ち、映像は遅れる。なおかつウーナもレイも後ろ向きでカメラに捉えられるために、彼の声は(過去にも現在にも)どちらにも「名を呼ぶ声」として機能していない。声に顔はない。
 現在のレイが、ウーナから「レイ」と、あるいは会合の前後、二人の逃走時にレイを探しまわる同僚などから何度も「ピーター」という彼の偽名が呼ばれ続けているのとは対照的である。現在のウーナに向かっても、レイはその名を呼ばない。呼んだとしても姿の見えない扉越しにただ一度だけだ。回想の少女ウーナは幾度となくレイの名を呼ぶ。あの見知らぬ港町でも、あるいは法廷の証言でも。法廷で証言をする少女ウーナは別室のカメラで中継されるモニターの中にいる。裁判長から「法廷に自分の名前を言いなさい」と聞かれているにも関わらず、少女ウーナは「レイ どこへ行ったの 何が起きたの、私を置いて… レイ 聞いてる? 愛してる」と自分の名前ではなく、相手の名を応えている。被告人席のレイは、視線を合わせず無言のままでいる。物語の最後、ウーナによって、最初のフラッシュバックと同じブルーモーメントの海辺の観覧車の回想が思い出される。
 白いドレスワンピースに着替えたウーナは、レイの住む家へ向かう。その部屋はレイの養子の子ども部屋であるらしく、ピンクや白を基調した部屋の中、おとぎの国のお姫様のように鏡に写ったり、小さなベッドで丸くなるウーナは、先ほどの黒い亡霊の存在から、少女へと向かっている。ベッドで眠りながら最後に回想される海辺の観覧車にレイと少女ウーナは座っている。レイは「愛している」と少女ウーナに告げ、彼女の手を握りしめる。しかしここでも少女ウーナの名は呼ばれない。名がある=名を呼ぶこと。愛する者の名を呼ぶことは、愛の行為のはじまりにして、そもそも名がなければ愛もまたないのだと思う。だからいつまでもその名は呼ばれない。反対にここにあるのは、今まで表象上はメタファーとして示され(二人の公園での逢瀬を揺れる木々のざわめきで、あるいはドーバーでの昼間の宿の描写を床に脱ぎ捨てられたウーナの衣服や風に揺れるレースカーテンで示される)、隠されていたウーナとレイのあからさまな肉体の不釣り合い、非対称的な違いへの吐き気だ。画面は、少女ウーナの手を握りしめるレイの手のアップとなるが、その二人の手の大きさ、あるいは太腿の身体的な違いはやはり異和として強く残る。観覧車はどこまでも海辺を周りながら揺れ、風は強まり、遊園地の強いライトが煽り気味に二人の顔を照らし出し、その回想は閉じられる。ドーバーでの逃避行は、終始風の強い不穏な天気の中にあったが、ブルーモーメントの時間帯にいる鳥籠のような観覧車のツーショットは、揺れながらゆっくりと風景を変えていくその中に、いきなり二人の顔を照らし出す白緑のメタルハライドランプの光が超自然的ですらあり、風に舞い上がる彼女のウェーブの長い髪が少女ウーナの顔を取り巻き、不分明な顔のイメージが明白な白光りから、事態は想像よりも異常な速度でもって、風の音と共に、回想のショットは閉じられる。すべての自然現象は彼女によるものである。

 回想は終わり、その部屋の持ち主の少女がウーナの目の前に現れる。ちょうど少女ウーナと近い年齢の女の子に問い詰められ、ウーナは名を聞かれる。ウーナは躊躇しながらも絶望的にくぐもった声で、少女に自分で自分の名を告げる「ウーナ」と。ルーニー・マーラの見開かれた目は、やはりいつも通りではあるのだが、名を告げる瞬間、一瞬、その目元は痙攣を起こす。名を呼ばれなかった者が、かつての少女である自分と同じ存在に向かって、自分の名を呼ぶ。そしてその少女は、レイの養子でもあり、レイは怪しく。あまりにも皮肉な最後であり、ウーナはその家を立ち去る。暗闇の道の中心を、白いドレスのウーナは、カメラへ向かって真正面に歩きながら、ギリギリでその姿をフォーカスアウトさせフレームから消えていく。反転し、とぼとぼと自分の家に歩いて行くレイの後ろ姿が、そのカットの前にあるだけだ。彼女には返しとしてのバックショットはない。彼女が歩く道の先を彼女と共に見ることができる者は誰もいない。

 ウーナは完全に敗北をしたのだろうか。いやそうとも言えない。そもそも彼女が現れるファーストショットはパッパッパっと明滅する光の中にある。1コマ単位のあらゆる方向から来る光と闇の中、イメージは変貌し、顔は変わり、大音量のノイズと共にそこに存在し続け、活写されるその姿は、パッパッパッパ、パトリシア〜と呼ぶにふさわしく、やはり彼女はパトリシア・ルーニー・マーラである。そしてそれが彼女の本名なのだ。パトリシアという名をつつましやかに隠し、母の姓と父の姓によって現れるルーニー・マーラは、あらゆる物語で愛に破れ、立ち去るが、この世界に敗北した試しなど一度もない。しかし今回は、事情を異にしている。ルーニー・マーラが闇の中へフォーカスアウトした後に、もう一つのラストカットがある。夕暮れ時のあの宿のベッドに座っている少女のウーナの姿だ。物語上はレイの帰りを待っているのであろうが、徐々にトラックアップするカメラを前に、彼女は夕暮れの窓を少し見て何かを考えている。一瞬、口を軽く開き、目を瞬かせ、不意に流れるようにキャメラを見据えるその表情の身振りは『アワーミュージック』のあのサラエヴォの路の上での(あるいは講義やラストカットの)オルガの仕草に違いなく、その存在論的な瞳のあり方は見る者をたじろがせる。この場合、私たちはレイの位置にいない。物語上、その時間、その待機の時間を見た者は誰もいない。少女ウーナのカメラ目線は、映画中このカット以外に、裁判における証言台のビデオ中継があるが、冒頭タイトル前にも現れるリラックスしたオフショットの映像時も、裁判でレイに語りかける時も、カメラ目線?それがどうしたとでも言わんばかりに、ビデオの色彩であろうとフレームサイズが変わろうと、あっけなく正面を突破してしまうのだから、このラストカットも何のことはなく撮影されただろう。
 彼女は、窓から来る夕暮れの光線を右側で受け、左半分はほぼ暗部となり、あの右目で見据えたただならない表情と顔は、パトリシアと同じように、存在として映画を映画たらしめていた。待つ理由などない。誰も誰かを待つことなどできない。そしてその顔はこう言っている。私の名を呼ぶな。名前がないから名を呼ぶなというのではない。ノリ・メ・タンゲレよろしく、お前たちにそんな権利は1ミリもなく、私の名を呼ぶ者は誰もが、生と死の敷石に足を踏みいれることになる。だから私の名を呼ぶな。過去の総体が大きく変貌してしまった後、残された名はイメージを浮遊し、声や大気へ、肉は匂いとなってかろうじて存在するが、同じ時空を共有しえない者たちは顔のない名を所有しているにすぎない。反対に、名のない顔というものはおそろしい。しかし不安定なコマのイメージはサイレントのまま震え続けている。そのあやうさを伴いつつ、一体、少女ウーナは13歳のまま永久にそこに幽閉されてしまったのだろうか。それは分からない。ただルーニー・マーラの少女時代の役を演じる者がまったく似ていないことにおいて、そしてまったく別な次元で、それでも抵抗し、そこに存在を刻みつけることができたということは喜ぶべきだろう。彼女の名は誰も知らない。亡霊も子どもも死生の境界に近いという意味において固有名はなく、現実の人間との非対称性ということでは、そこに男女の愛の関係はない。非対称的な存在の間で愛は不可能ではあるが、もしかしたらもう一つの別な物語もあったかも知れない。というのは少女のあの言葉は真実の感情であったかも知れず、ドーバーを超え、彼女たちがその逃亡に成功していたとしたら、あの水平線の見えない海を越えていたとしたら、亡霊たちは地上に留まることはなかったのだ。それはまた、目に見えない別な物語 (6)。








引用等

1 『失われた時を求めて』 4 花咲く乙女たちのかげにⅡ 吉川一義 訳 岩波文庫 p. 26
2 『失われた時を求めて』11 逃げ去る女 鈴木道彦 訳 集英社文庫 p. 162
3 これより以前、アヴァンタイトルで音楽が掛かりながら、
  少女ウーナの裁判所の証言室でのビデオ中継の映像が流れる。
4 『失われた時を求めて』 5 ゲルマントのほうⅠ 吉川一義 訳 岩波文庫 p. 24
5 Jean Rousset, “Proust”, Forme et signification, p. 369
6 「目に見えぬ別の物語が必ずある」 ― W・H・オーデン
  クロード・シャブロル『刑事ベラミー』(2009)


参考文献未再読

シネマ21 青山真治映画論 +α集成 2001-2010 オルガの隣にいる女は誰?
樋口泰人 映画川 『マリアンヌ』/ boidマガジン 2017年2月25日
蓮實重彦 ガラスの陶酔 ヴィム・ヴェンダース論 / 季刊リュミエール 第1号
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