近藤啓二

ウーナ 13歳の欲動の近藤啓二のネタバレレビュー・内容・結末

ウーナ 13歳の欲動(2016年製作の映画)
4.7

このレビューはネタバレを含みます

宇多田ヒカルまでがノンバイナリーとか言い出し、セクシャリティについての抵抗が急激に薄れるなか、未だに腫れ物に触るジャンルになっているのは小児性愛と獣姦あたりか。

戯曲を基にしているため登場人物たちが活動する舞台は絞られており、メインは巨大な物流倉庫となっている。
この倉庫内をかつて13歳だった主人公ウーナと、愛し合った年上の男レイは移動しながら、離れ離れになった過去の時間を埋めるような会話劇になっている。

二人のダイアローグは、四角いガラス張りの倉庫事務所から始まり、終始、倉庫内の直線で占められる、閉ざされた空間を意識する画面設計になっている。
巨大な収納棚、トイレの個室、など。
倉庫の役職でもあるレイは社内会議の騒動が原因で、解雇した仲間から追われ、ウーナと共に逃れながらそれらの空間から空間へ移動していく。
終盤、ウーナが解雇された男の家に行くシークエンスになるが、彼の家も大きな集合住宅であり、四角く区切られたイメージが強調されている。

この「四角く無機質な空間」はなにか。

クラブのトイレで行きずりのセックスをするような描写に始まり、大人になった主人公は明らかに壊れて挙動不審な女性になっている。
13歳の時のしなやかさ、奔放な美しさはない。
無機質な四角い空間は、抜け殻になった主人公の世界、時間、自身、そういったものの象徴にも思える。
おそらくこうした意図が込められているはずなので、何度か見直してみたい。
分析しがいがある演出だと思う。

ちなみに、こうした画面設計は絵画が基礎になる西欧映画によくみられるが、アメリカ映画にしてはなかなか珍しい。
同じく14歳の援交少女による復讐劇「ハードキャンディ」も、スタイリッシュな画面設計だったが、小児性愛を題材に扱う場合、アートを強く打ち出して予防線を張っておく必要があるのかもしれない。
また英仏加合作であるからこそ、映画化できた題材だったのかも。
ハリウッドではまず、出資者はいないんじゃないだろうか。


抜け殻のウーナは何を埋めたかったのか。

「13歳の少女に欲望を感じたのか? それとも自分のことを本当に愛してくれていたのか?」

こう詰め寄るウーナに、レイは自分は小児性愛者ではない、と断言する。
あの時、確かにウーナ自身を愛していたと。

小児性愛者ではない証拠に4年の服役後、名前を変えていまは年上の妻がいるのだというレイ。
妻を愛しているから、もう関わらないでほしいと。
レイの家へ押しかけ、ウーナは彼の妻に訊く。
「いまは幸せ?」
しかし妻は顔をこわばらせて何も答えない。
幸せそうに見えるレイの家庭に、なにか影があるとわかる。

さらに、ウーナは二人の間に連れ子がいて、その娘がちょうどかつての自分の年ごろであることを知る。

最後まで自分は小児性愛者ではないと言い続けるレイだが、ウーナは彼の興味がその義理の娘に向けられていることを悟り、彼のもとから去る。

もはや自分の中の13歳の少女を、再び抱きしめ、止まった時間を進めてくれる者はいない…。
夜道を一人、ぎこちなく歩いて帰っていくウーナの姿は痛々しく、印象的だった。

少女のベッドの上には、大きなホワイトタイガーのぬいぐるみが置かれているのだが、これがレイとその義理の娘の関係を想起させる優れたアイテムになっている。

小児性愛という映像化には慎重さが求められる題材ながら、センセーショナルに扱わず、壊れてしまった主人公の内面に寄りそうように描かれた秀逸な作品だった。
が、「13歳の欲動」といういかにもそっち方向に興味を持たせるような、扇情的な邦題は如何なものか。
品もセンスも無い。
近藤啓二

近藤啓二