三四郎

いつまた、君と 何日君再来(ホーリージュンザイライ)の三四郎のレビュー・感想・評価

3.0
向井理の以下の科白が印象的だった。
「良い成績取っても、金持ちじゃけぇ、先生が贔屓しよんでと言われて、俺は喧嘩ばかりしよったよ。ずっと考えてた。富の不公平が人間を不幸にする。社会主義運動に飛び込んで、大学も辞めて、俺は貧しい人たちの味方になるつもりでいた。それがどうだ。誰より貧しいのはこの俺だ。そのくせ、ガサガサと野良仕事に明け暮れる親父さんを心のどこかで見下していた。頭の中はグズグズの土くれだ」
戦前も戦後も、社会の矛盾に抗議抵抗し、共産主義運動(社会主義運動も然り)に熱くなる大学生、知識人たちの思考は、まさにこの言葉の通りだったのだろう。

「良い成績取っても、金持ちじゃけぇ、先生が贔屓しよんでと言われて」「富の不公平が人間を不幸にする」「俺は貧しい人たちの味方になるつもりでいた」
他人から正当に評価されない、正当に評価してくれない、という自分の抱えている苦しみからの解放のために、そして、貧しい人々への哀れみと同情から、共産主義(社会主義)に走るのだ。
しかし、その大学生や知識人などに貧しい農家出身の人間が果たしていただろうか?労働者階級出身者がどれほどいただろうか?
所詮、共産主義(社会主義)は、インテリの机上の空論でしかない。貧しい人や労働者階級のことを本気で考えているのではなく、ただ「可哀想」と同情している偽善なのだ。
向井理が「ガサガサと野良仕事に明け暮れる親父さんを心のどこかで見下していた」と言うが、それが真実である。
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